博多の雑煮は、いまや豪華なことで有名だ。まず、ブリの切り身があり、紅白のかまぼこ。鶏肉、にんじん、里芋、大根、干し椎茸と続き、焼き豆腐や海老が入ることもある。だしにはあご(トビウオ類)を使う。しかし、果たして昔からこれが正統な博多の雑煮だったのだろうか。
博多の古い雑煮には、焼きハゼを使っていた(今もわずかながら使われる方がおられるようだ)と聞き、興味が湧いてきた。焼きハゼを使う雑煮には仙台のものが有名だけれど、東京にもある。これが博多湾の沿岸地域にもあったというのだからおもしろい。博多で使われなくなったのには、沿岸の埋め立てが進んで、まとまって獲れなくなったというのが大きいのではないか。ローカルな"だしざかな"がこのような経緯で文化とともに失われていくのは心が痛む。
さて、その古い博多の雑煮を作ってみる。具はマダイ、かつお菜、干し椎茸、里芋(と大根)である。焼きハゼ(焼き干し)は秋のうちに作っておいた。マハゼの腹と鱗を取ってよく洗い、魚焼きグリルでできるだけひれが焦げないように素焼きにしたものを、1日風に当ててからキッチンペーパーを敷いた容器に入れて、3〜4日ほど経つとからからになる。このまま冷蔵庫に入れておいてもいいし、冷凍しておいてもいい。雑煮を作る前の晩から、下準備を始める。焼きハゼは沸騰した湯に10秒ほど浸したら、冷水をかけて表面のぬめりを指の腹でこそげとる。これと昆布、干し椎茸とを水に入れて、わずかに酒を加えて、一晩かけて煮出す。朝になったら干し椎茸を取り出してから、火にかけて(弱火がいい)、沸騰直前に昆布を取り出し、沸騰したらあくを根気よく取って、焼きハゼを取り出す。火を止めたらかつお節を振って、これを濾したら基本のだし汁ができる。かつお節は繊細な焼きハゼのだしを生かすため、最小限にとどめておく。なお、だしをとったあとの焼きハゼにはまだまだ味が残っているから、甘露煮にして食べるべきで、捨てずに取っておく。
次に、中の具の調理。魚はブリではなく、「あら」(クエなどの大型のハタ類)か、「たい」(マダイ)を使う。あらは高いので、マダイを使う。マダイは3枚におろしてから腹の骨、中骨を抜き取り、一口大に切る。これに前の晩から薄く塩をあてておく。たいは昆布を入れた湯を沸かして、ここに放り込んで、中弱火にして火を通す。里芋は皮を剥きながら八角に切って、火が通る直前までゆがいたら冷水にとる。一緒に平たく切った大根も茹でておく。かつお菜、これは高菜の仲間の地域品種なのだけれど、これも別に茹でておく必要がある。たっぷりの湯を沸かしてわずかに塩を加える。根本の方から湯に入れ、だいたい1分半ほどで取り出し、冷水にとって、切ってから絞る。茹ですぎると表面がベロベロと剥がれてくるので、茹で過ぎないこと。ようやくゴールが見えてきた。
もちは丸餅を焼かずに使う。帯谷瑛之介によれば昔は水餅を使ったという。餅はついて、そのまま置いておくと表面がカビたり、ひび割れたり、硬くなってくるので、かめやたらいに水を張って、そこに餅を入れておき、毎日水を替える。餅が丸いので水餅にするのは重要。今も古い家では水餅を使う。それはさておいて、丸餅を昆布を敷いた別の鍋で煮る(だし汁を多めに作っておいて、これで煮てもいいようだ)。
だし汁には薄口醤油とみりんをわずかに、そして塩少々で味を整える。ここに絞った干し椎茸と里芋を加えて、3分程度煮る。そのあと先に火を通しておいたマダイを入れて温める。汁椀の底に大根を敷いて(餅がお椀にくっつかないようにするため)、丸餅、干し椎茸、マダイ、かつお菜を盛って、だし汁を静かに注ぎ入れる。これでようやく、いにしえ(戦前〜戦後すぐくらいの)博多雑煮が完成する。繊細な出汁の味わいが、本当にぜいたくな一品になる。
波多江五兵衛(明治39年生まれ)はその著書「冠婚葬祭博多のしきたり」のなかで、「餅のほかに入れる具はカツオ菜、シイタケ、鯛の切り身だけです。ときには里芋、焼き豆腐までは加えることもありますが(後略)」としている。長尾トリ(明治42年生まれ)は「魚も、古老(私も)に言わせるとアラとタイが本当で、ブリは大正、昭和の初めから主になったようなもの。」と書いている。「博多の味」(昭和61年、帯谷瑛之介と西島伊三雄による語り)によれば、ブリを使う家と使わない家がある、とある。しかし今現在、タイを使った博多雑煮の情報にたどり着くのは果たしてとても難しい。西島(大正12年生まれ)は、雑煮と言えばブリだと語っており、古い時代からブリを使う雑煮もあったのだろう。これがいつの頃からか、ブリ一色になり、具の種類も増えていったわけだ。このあたりのことは別の機会に書いてみたい。
博多の古い雑煮には、焼きハゼを使っていた(今もわずかながら使われる方がおられるようだ)と聞き、興味が湧いてきた。焼きハゼを使う雑煮には仙台のものが有名だけれど、東京にもある。これが博多湾の沿岸地域にもあったというのだからおもしろい。博多で使われなくなったのには、沿岸の埋め立てが進んで、まとまって獲れなくなったというのが大きいのではないか。ローカルな"だしざかな"がこのような経緯で文化とともに失われていくのは心が痛む。
さて、その古い博多の雑煮を作ってみる。具はマダイ、かつお菜、干し椎茸、里芋(と大根)である。焼きハゼ(焼き干し)は秋のうちに作っておいた。マハゼの腹と鱗を取ってよく洗い、魚焼きグリルでできるだけひれが焦げないように素焼きにしたものを、1日風に当ててからキッチンペーパーを敷いた容器に入れて、3〜4日ほど経つとからからになる。このまま冷蔵庫に入れておいてもいいし、冷凍しておいてもいい。雑煮を作る前の晩から、下準備を始める。焼きハゼは沸騰した湯に10秒ほど浸したら、冷水をかけて表面のぬめりを指の腹でこそげとる。これと昆布、干し椎茸とを水に入れて、わずかに酒を加えて、一晩かけて煮出す。朝になったら干し椎茸を取り出してから、火にかけて(弱火がいい)、沸騰直前に昆布を取り出し、沸騰したらあくを根気よく取って、焼きハゼを取り出す。火を止めたらかつお節を振って、これを濾したら基本のだし汁ができる。かつお節は繊細な焼きハゼのだしを生かすため、最小限にとどめておく。なお、だしをとったあとの焼きハゼにはまだまだ味が残っているから、甘露煮にして食べるべきで、捨てずに取っておく。
次に、中の具の調理。魚はブリではなく、「あら」(クエなどの大型のハタ類)か、「たい」(マダイ)を使う。あらは高いので、マダイを使う。マダイは3枚におろしてから腹の骨、中骨を抜き取り、一口大に切る。これに前の晩から薄く塩をあてておく。たいは昆布を入れた湯を沸かして、ここに放り込んで、中弱火にして火を通す。里芋は皮を剥きながら八角に切って、火が通る直前までゆがいたら冷水にとる。一緒に平たく切った大根も茹でておく。かつお菜、これは高菜の仲間の地域品種なのだけれど、これも別に茹でておく必要がある。たっぷりの湯を沸かしてわずかに塩を加える。根本の方から湯に入れ、だいたい1分半ほどで取り出し、冷水にとって、切ってから絞る。茹ですぎると表面がベロベロと剥がれてくるので、茹で過ぎないこと。ようやくゴールが見えてきた。
もちは丸餅を焼かずに使う。帯谷瑛之介によれば昔は水餅を使ったという。餅はついて、そのまま置いておくと表面がカビたり、ひび割れたり、硬くなってくるので、かめやたらいに水を張って、そこに餅を入れておき、毎日水を替える。餅が丸いので水餅にするのは重要。今も古い家では水餅を使う。それはさておいて、丸餅を昆布を敷いた別の鍋で煮る(だし汁を多めに作っておいて、これで煮てもいいようだ)。
だし汁には薄口醤油とみりんをわずかに、そして塩少々で味を整える。ここに絞った干し椎茸と里芋を加えて、3分程度煮る。そのあと先に火を通しておいたマダイを入れて温める。汁椀の底に大根を敷いて(餅がお椀にくっつかないようにするため)、丸餅、干し椎茸、マダイ、かつお菜を盛って、だし汁を静かに注ぎ入れる。これでようやく、いにしえ(戦前〜戦後すぐくらいの)博多雑煮が完成する。繊細な出汁の味わいが、本当にぜいたくな一品になる。
波多江五兵衛(明治39年生まれ)はその著書「冠婚葬祭博多のしきたり」のなかで、「餅のほかに入れる具はカツオ菜、シイタケ、鯛の切り身だけです。ときには里芋、焼き豆腐までは加えることもありますが(後略)」としている。長尾トリ(明治42年生まれ)は「魚も、古老(私も)に言わせるとアラとタイが本当で、ブリは大正、昭和の初めから主になったようなもの。」と書いている。「博多の味」(昭和61年、帯谷瑛之介と西島伊三雄による語り)によれば、ブリを使う家と使わない家がある、とある。しかし今現在、タイを使った博多雑煮の情報にたどり着くのは果たしてとても難しい。西島(大正12年生まれ)は、雑煮と言えばブリだと語っており、古い時代からブリを使う雑煮もあったのだろう。これがいつの頃からか、ブリ一色になり、具の種類も増えていったわけだ。このあたりのことは別の機会に書いてみたい。