私の育った家にとって外食とは特別な存在だった。そういう家に育ったことはいま考えると本当に幸運なことだったと思うけれど、一方でそれが理由で気づくのに遅れた味も多い。 我が家は決して裕福ではなかったし、母は家族の健康を気にして、また姑の目を気にして滅多に外食がなく、もちろん出前をとったこともない。姑、つまり私の祖母(昭和1桁生)は典型的な愛知県西部の中流思想であって、外食はぜいたくに限り、サラリーマンが行くようなうどん屋、定食屋、あるいはファミレスといったものを明確に嫌悪していたし、そうした飲食店を利用することを下品だといって露骨に嫌がった。もちろん、マクドナルドのようなファストフードも許していなかったが、なぜかミスタードーナツは認めていた。洋菓子屋の立ち位置だったためだろうか? そんなわけだから私にとっての外食機会とはなんぞごとの時に訪れる祖父母との食事、法事にまつまる食事、そして我が家で小銭貯金が貯まったときに発生するプチぜいたくとしての外食、に概ね区分できた。ここに加えて、子供会のような組織、ママ友関係での食事(これは昼の外食か、おやつどきの外出になる)が年に数回、従兄弟家族との外食が数回、と数えていくことができる。 水鶏庵は、普段的な店をきらう祖母が唯一許していた店で、そば屋だった。許していた理由はなんとなく分かる。それなりに格式張った店で、もともと織物屋をやっていた方が工場を畳んで始めた店なのだ。その伊藤さんはもともとこの土地に由緒ある家系である。 水鶏庵では、ほとんど決まってざるそばを食べた。席はほとんどの場合、入り口を入って右手の座敷で、江戸時代や昭和の初期に描かれた宵祭りの絵を眺めながら、表面に駒かな凸凹のある机の上を指で撫でながら、そばを食べていた。この店のそばは太めの、灰色の信州そばで、私のそば観はこの店によって出来上がったといって差し支えない。ぜいたくとして、天ぷらそばを食べることもあった。そば屋ながら、きしめんもメニューにはちゃんとあり、夏場などは仕事を抜けた祖父と一緒にきしころを食べに行った。この店はきしころもうまい。日本で指折りのきしころのうまい店だった。 水鶏庵の名物に、麩田楽があった。津島麩、という今や廃れた生麩を焼いて、田楽味噌を塗ったもの。プレーン、きび、抹茶の三色あり、ほとんど味に差はないが、必ず食べるお気に入りの味だった...
私はおいしいものが好きなので、盛りの時期以外にはあまり川魚を採らない。必要に応じて採ることはもちろんあるけれど、それは食べたいから、とは少し違う。 鯉の場合、いちばんうまいのはやはり大寒からそれを少し過ぎた頃までで、そのあととなると次第に肉の味が抜けてくる。産卵のため、生殖腺に栄養がとられていくためだ。鯉ほどの魚であれば、産卵してそこで死ぬ、わけでなく、何年も産卵を続けるせいか、ものすごくひどいということではない。あくまで一番よい時期に比べて劣るという話で、その時期が大まかに言えば3月から、6月までとなる。夏になれば体力は回復しきっているものの、今度は水のにおいが肉につくという問題が生じるので、結局食べるのは10月末から2月までになる。養殖の場合には年中問題なく食べられる。 さて川で出会ったおじさんが捕まえた、6キロはあるかという大鯉をいただいた。おろして同行者と山分けして、5日かけてどうにか食べた。やはり味は落ちるが、骨から出る味はそうそう変わらないので汁はたいへんよろしかった。 肉の方は、色々として食べたが問題はこれだけ大きい鯉が産卵を控えると、どうしても骨がましくなる点にある。普通に刺し身として引くと小骨ならぬ大骨が気になる。ただ、腹側には肉間骨がないのでその点心配は無用である。このうち、肋骨のない腹中の腹ビレ周りはもっとも肉がうすく、皮もうすいがつまみには一番の部位だ。 ほんの少しだけ塩を加えた湯を沸かして、ここにこの肉を塊のまま、投入する。2割くらい火を通したら冷水にとり、皮の方を指でしごいてよく洗う。ぬめり気が残っていると台無しになるからだ。そうして水気をしっかり拭いたら、皮ごと包丁で薄く、厚さ3ミリ内外に細切りして、鷹の爪、二杯酢をかける。鯉一匹でノミカタをする際には、必ず酒のつまみに出す一品だと教えてもらった。