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まめご飯

江戸期のレシピをつぶやく、いにしえレシピさんなるアカウントがある。今となってはなくなってしまった、あるいは、単に特定の本の企画として書かれただけのような流行りのレシピが毎日流れてくる。この中に大豆飯があった。我が家でもかつては枝豆のまめご飯が出ることがあった。私は、なにを隠そう枝豆が大好物である。そういうわけで、ふとしたきっかけから豆ごはんを作ることにする。 枝豆はさやつきで400グラム。実際にはこれは多すぎなので250グラムもあればじゅうぶんだと思う。豆はすすいでから粗塩をふって揉み、表面の汚れや余分な毛を落としてすすぐ。毛の多い品種ならざるにこすりつけるようにして洗い、ある程度脱毛の余地を除いておいた方がいい。 鍋にたっぷりの湯(約1.5リットル)を沸かし、塩を大さじ1杯くらい加えて、ここに枝豆をぜんぶ放り込む。強火のままにしておいて再び沸騰したら2から4分程度湯がいて、まめごはんにするなら硬いめがいいものだからこの程度でざるにあける。このとき、豆のゆで汁もとっておく。ざるにあけた枝豆は水などをかけないでそのまま自然に冷ます。ゆで汁も手がつけられるくらいまで冷ます。 米2.2合にもち米0.3合を合わせて、30分ほど水を吸わせる。粗熱が取れてきた枝豆をさやから取り出して、豆とさやに分ける。色の悪い豆はその場で食べてしまう。 米の水気を切って、ここに先のゆで汁を加える。ただし、そのままでは塩辛いので少し水を差して加減してから使うようにする。だいたいの加減で、ゆで汁8に水2くらい。水量は2.3合分に加減する。この上全体を覆い隠すようにさやを加えて酒を少々振り、早炊きモードで炊飯する。炊き上がったら落ち葉を掃くようなイメージで橋でさやを取り除き(意外に米はくっつかない)、よけておいた豆を混ぜ込んで数分置いたら完成となる。   豆の鮮やかさが残り、米にはさやから出た味と、香りとがついている。できたてはとてもおいしくて、見た目にも楽しいものだ。 しかしこのまめごはん、翌日になってもまたおいしい。作りたてに鮮やかさだった豆が、ごはんの余熱でいくらか落ち着いた色味に変わる。冷めているのに、豆の味もよくなった気がする。 まめごはんをやるならば、ごはんはいいものを、逆に、豆は高級すぎないもの、ふつうなものを使った方がいいと私は思う。豆の主張が激しすぎると米が負けてしまうのでこのよう

夏休み

 いわゆるお盆に休まなくなってしばらくになる。年によっては少しの休みがあるけれども、盆のさなかに川に行こうという気もあまり起きないし、となると家の中で過ごすか、本屋に出掛けてコーヒーを飲むかくらいになる。数年前には盆明けに合わせて休みをとり、薩摩半島をめぐったこともある。 今年は例年以上の仕事量で、毎週のように締め切りがやってくる。たまたま、数日間の余白が空いた。この余白に京都滋賀をたずねて、短い夏休みを堪能した。にょろぴょんくん、ハタツモリくん、遼太郎くん、とりふぁくんに大いにお世話になり、特にとりふぁくんにいただいたくずきりのおいしいことにいたく感動した。 私は日頃夏場の京都滋賀を避けていて、それは盆地が暑すぎるからである。ところが夏でないと味わうことのできないものにアユ、盛りのビワマス、ゴリがあり、これらを楽しむためにはやはり夏に出掛けるよりほかにはない。今回は実に20年越しの川床のさとも訪ねることができた。川というだけであれほどの冷涼をもたらすような自然の力と人の知恵はすばらしいと思う。このすばらしさの度合いというのは、クーラーのなかった時代には奇跡のような世界、まさにこの世の天国だったのではないか。 さて今回もアユを何度も食べ、そしてビワマスを食べてきた。ビワマスは禁漁期の2ヶ月間を除くほぼ年中出回る魚ながら、もっともうまいのは夏の間である。だいたい8月いっぱいくらいまでがしっかりうまくて、9月になると個体差は大きいが次第に味が落ちてくる。水温が高すぎない6月の方が鮮度のいいものが多い。かつて、ビワマスというのは秋の産卵のために河口や浜に近付いたものを捕るか、または川の中で捕まえるものだった(すべてではない)。このような産む直前のマスは脂が抜け、水っぽくなり刺身に不向き。それがある頃から沖合いに刺し網をかけて狙って捕らえるようになり、こちらが主流になってきた。また近年ではトローリングが多くなったので、釣り上げて神経締めを施し、きわめて良好な鮮度で流通させるものも増えてきた。これ自体はとても喜ばしいことだけれど、庶民にとっての高嶺の魚、としてのポジションのマスを残してほしい。鮮度が多少落ちる網のものには、それ相応の味があると考えるべきだ。 さてこのマスの1キロ300のものを分けてもらい、おろしてして自分流に食べる。ビワマスは刺身ばかりが褒められるけれど、私は