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日本の食生活全集について

日本の食文化を調べるにあたって、今や当たり前のように参照される存在が日本の食生活全集(農山漁村文化協会)だ。これは全国47都道府県について、聞き書きによって各地の昭和初期の食文化を記録したもので、ウェブサイトによれば「本全集(各県版+索引巻、全50巻)は、全国300地点、5000人の話者から「聞き書き」してできあがった世界最大の食文化データベースです(収録料理数5万2000点)。」ということである。
http://www.ruralnet.or.jp/zensyu/syoku/

さて、実際のところ、現在に至るまで、全国すべての地域の食文化を(比較的詳細に)縦覧できるような書物はこれを置いて他にはない。このような仕事はある種の使命感と、そして十分な金銭的投資がなければ実現しえないものだ。そもそも食文化を記録するという気風に乏しい我が国にとって、必要不可欠な仕事であったことには疑いの余地がない。一方で、私のような人間から見ると、このシリーズは役に立つようでほとんど役に立たないことが分かる。どういうことか。
本書の特徴は、食習慣に重きを置いた構成にある。日常の食事、おめでたいときの食事、四季折々の朝昼夕食といった切り口の章立てがすべての地域で徹底されている。このことは、日本の各地に存在した、明確なハレとケの食事、またその地域比較を容易にしている。ところが、肝心の料理、調理については全く心もとないものとなっている。料理の写真は限られたものにしかなく、料理方法の記述もきわめて断片的だ。たとえば、「聞き書き 福岡の食事」を読んでみる。そこにはドジョウ汁やナマズご飯など、魅力的な川魚の料理が含まれているが、料理については具材と、入れる順序くらいしか分からない。コイのあらいについても、うろこをとって3枚におろし、酢味噌を付けて食べる、とあるだけで、甘いのか、酸っぱいのかも分からず、写真もなくてはこの料理を再現できるはずがない。要するに、どのようなものが存在していたか、という概要の記録にはなっていても、伝承性というものが全く感じられず、「昔は面白かったね」というメッセージしか読み取れないのである。
もうひとつの問題点は、この聞き書きの対象者がことごとく女性であることにある。ウェブサイトにも「話者は、昭和初期(1930年頃)、川も海も空気もきれいだった時代に、農村や都会で台所をあずかり、一家のいのちをはぐくんでいた女性たち。」とあり、あくまで前提として食文化を形作ってきたのは女性だと言わんばかりである。私はこれまで、長く川魚の料理の聞き取りを続けている。すると分かってくるのは、実は川魚の料理というのは、女性よりもむしろ男性が担っている場合がかなりあるという事実である。昔の女性がみな、魚を捌いて料理ができたというのは幻想で、実際には捌き手を男性が、煮炊きを女性が担うケースが普通なのであって、海浜漁村などはごく例外的だ。川魚の場合、単に捌くだけではなくて、あらいや汁物について料理が完結するまでを男性が行っているケースが目立つ。こういう背景を踏まえずに、台所仕事=女性ありきで進められてしまっている。このシリーズでブレーンを務めた方がどのような信条の持ち主だったのかは分からないが、こういう批評なしに本書を読んでしまうのは危険である。日本の食文化はぜんぜん調べられていないし、記録されていないということなのだ。

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雷魚を食べる その1

日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

カワムツを食べる

カワムツという魚がいる。海のムツではなく、川のムツ。ムツというのは古語である。海のムツといえば今や高級魚の末席にあるような魚だけれど、カワムツはどうだろう。昔持っていた釣魚図鑑には不味と書いてあったし、そのほかの文献を読んでみてもオイカワより味は劣る、とか、とにかく比較的評判が悪いことが多い。私は幼少の頃からオイカワのおいしさを知っていたものの、カワムツについてはこうした事情からかなり最近まで食べる機会を逸していた。そもそも、カワムツはオイカワに比べると川の上流側、淵のような深いところにいることが多くて、私の主な活動範囲である平野部の浅い水路にはなかなか出てこない。少なくとも愛知県ではそうだった。 西日本で一般に川の小魚と言えばオイカワになると思うのだけれど、山手に進むとカワムツに変わる。たしかに、ここ九州でもカワムツはオイカワよりもより上流まで分布している。ヤマソバヤという呼び名は山にいるはやという意味をもつ。この山のハヤがひとびとにとっての重要なタンパク源であったことは疑う余地をもたない。その割に文献資料に欠けるので、やっぱり自分の足で昔の記憶を尋ねて歩く必要があるし、単にハヤとされている資料ではそれがカワムツであったのかオイカワか、またウグイやその他かということが分からない(文脈で分かることもある)。 さてそのカワムツを食べたくて、水辺に出掛けては黒々と群れをなしているところに突っ込んで、大小を取り合わせて持ち帰る。この時期は暑さですぐに肉が痛んでしまうから、よく冷やして持ち帰る。川のハヤは焼いたり揚げたりして食べる分には鱗をとる必要がない。大きなものは腹の中央あたりに包丁の切っ先で小さな切れ目を作り、そこから絞るようにして内蔵を押し出す。口からまっすぐではなく、少し尾がせり上がるようにして串を打つ。すなわち、串の先端は内臓の空洞を通って、臀びれの末端あたりから出す。平たい串を使えばこれでも魚が回ることはない。普通の塩焼きに比べたらかなり多い量の塩を振って、"塩だまり"ができるようなかたちで、手で塗りたくるようにして全身に回す。これをうまく焼き上げたら塩焼きとなる。家庭用の魚焼きグリルでも問題なくできる。はじめは強火で表面の水分を飛ばし、あとは弱火にして25分ほどかけて焼き上げる。焦がしすぎてはいけない。中まで焼けているかどうかという

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