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白魚

福岡の春告魚の代表格が、この白魚である。白魚と書く魚には標準和名で書くところのシラウオと、シロウオがある。私は愛知県のシラウオ文化圏で育ったため、シロウオを食べたことはほとんどない。伊勢湾でシロウオを漁獲している河川は皆無だろう。まとまって獲れないからだ。
福岡市の西側を流れる室見川には、例年2月にもなると川を横切るように白魚の簗が設置される。横切るように、といっても完全に川道を塞ぐわけではなくて、ひとつひとつの簗の間にはすき間が設けられているし、岸沿いは両側がら空きになっている。川沿いの料亭とり市や三四郎では、白魚が入荷し出すとまねき旗を掲げて、いよいよ春の到来を感じさせる。
白魚にはつくしうお、という呼び名がある。これは、この魚が筑紫の国に多産することと、茹でたときの姿が「つ」の字をなすことに由来するという。もともとは庶民の魚で、かつては室見川だけでなく那珂川や金屑川、樋井川、多々良川といった、博多湾に流れ込むあちこちの川で漁獲されていたものだ。帯谷瑛之介は子供時代、釣り餌に買っていたという。室見川の川端には桟敷が並び、川面を眺めながら白魚を楽しむ光景が広がっていた。このような光景は戦後にほとんど失われてしまったものの、春日亭という桟敷は変わらず営業し続けていた。
ただし、現状は厳しい。現在、博多湾流入河川で白魚の漁獲があるのは室見川に限られる。それ以外の河川では、水質の汚濁や河口域の埋め立て、しゅんせつといった著しい環境改変によって潰えた。室見川についても漁獲の減少が続いていて、現在の漁獲量は往時の10分の1以下にまで減ってしまっている。白魚は小石の下に産卵する。こういう小石が河口まで流れてこない不健全さが、室見川の今の姿なのだ。度重なるしゅんせつの影響も大きいだろう。川底をしゅんせつして掘り下げるということは、そこにある小石も丸ごと取り去ってしまうということ。春日亭の桟敷はもう過去数年開かれないままだ。


とり市や三四郎では元々、室見川のものだけを使っていたが、今では需要を賄いきれないために他の河川のものも使わざるを得ない状況にあると聞く。300年の伝統に生きる筑紫の国のつくしうおの糸も、あと少しで途絶えてしまうかもしれない。
ところで、この標準和名シロウオは、たいていシラウオと呼称されている。これはどうやら玄界灘に共通なようで、たしかにシロウオという発音は日本語としてちょっと不自然な気もする。そんなことを思っていたら、西島伊三雄がちゃんと「昔はシロイオと呼んでいた」とインタビューに答えていた。私も、シラならウオ、シロならイオが自然な、少なくとも西日本では自然な発音だと思う。科学的、あるいは教育的な文脈でなければ、その地に呼び習わされた呼称を使っていきたい。そこには風俗の風流がある。

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