スキップしてメイン コンテンツに移動

煎り酒を作っては蒲焼き

長い長い、食べ物の歴史を考えている。私の食べ物の興味の中心は、昭和初期から現在、また未来に至る食べ物の系譜であり、そこに横たわるさまざまな文化的事象だ。進化、統合、多様化、退縮といった、生物の進化にも通ずるような経緯を経て、食べ物の世界は刻一刻と、着実に変わっていく。古いものがなくなることを悼むのは単純だけれど、なくなっていく経緯もまた冷静に観測していたい気持ちが内心にある。ある時代の断面ともいえる食文化を調べるためには、その時代のことだけではなくて、少し遡った時代のことも調べてみる必要がある。食文化は多様であり、分岐的であり、また重層的である。
このところはずっと、うなぎの系譜を調べつづけている。そんなところに、ツイッターで知り合ったooi@n_mさんから、島根の食文化に関する文献を紹介してもらう。この一節にかつての蒲焼きに関する記述があり、これがどのような味のものなのか、ずっと確かめたい気持ちをもっていた。当然その時代にはまだ養殖うなぎの大規模流通がないから、天然のものを使わなければどんな味か分からない。自分で捕ることもできるけれど、ここは漁師さんの捕まえたもの、しかも潮入の場所のものを使いたい。そんなこと、人によってはささいでくだらないと思われるようなことを考えているうちに、幸運にも有明の小振りな天然うなぎを送っていただく機会に恵まれた。またとないチャンスがきた。
まずは煎り酒を作る。煎り酒の作り方にも、当然ながら個人差がある。島根ではフナやコイの糸造りや、ワカサギを付け焼きするときなど、さまざまなシーンで煎り酒を使ってきた。この煎り酒に欠かすことのできないものが地伝酒。島根に伝わる灰持酒(この言葉はたぬまゆさんに教えてもらう)で、深いあまみとうまみを持った、みりんに近い味の酒類だ。色はうつくしい琥珀色で、これはメイラード反応が素早く進むことによるものという。


この煎り酒を1合、水を半合、そこに梅干しを2個と梅酢を小さじに1杯、塩ごく少々、薄口醤油を大さじ2杯で中火にかける。今どきの梅は甘くて塩気が足りないから、わずかの梅酢と塩とを足して調整する。煮たったら鰹節を一掴みより少し少ない程度加えて、弱火に変えてじっくりと、液の量が3割ないし4割ほどになるまで煮る。とにかく焦がさないこと。これを濾したら煎り酒のできあがりだ。今回はうなぎにかけるので少し煮詰めた。
うなぎは背開きを焼いたものを送ってもらっている。新聞紙に包んで熱々になるまでレンジでチンしてから、焼き網を中火にして乗せ、脂がじんわりしてくるまで少し待つ。ここに煎り酒を塗っては焼きを4回繰り返してみる。


地伝酒自体に色味があるから、案外と色気がついたものになった。煎り酒は食材の味を引き立て、いやみを抑える。かつて松江の人々が味わった、100年以上前の味に思いを馳せつつ、少しだけお湯割りの焼酎を飲んだ。



有明のうなぎを提供していただいた松本鮮魚さん、どうもありがとうございました。

このブログの人気の投稿

雷魚を食べる その1

日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

秋になったら秋太郎

秋太郎という魚がある。鹿児島の秋告魚、バショウカジキのことだ。この魚はバレンと呼ばれることもあるけれど、たいていは秋太郎と名して流通している。この魚が店頭に姿を見せると秋がやって来たことをぐっと実感する。バショウカジキはフウライカジキと並んで安いカジキの代表のように思われているが、鹿児島では少しいい値がついている。この頃は福岡でも手に入ることがあり、流通に感謝するよりほかない。でも、さすがにワタは福岡ではお目にかかることができないから、やはり鹿児島へ行く必要がある。カジキのワタはうまい。 この日はたまたま、日本海の定置網に入ったマカジキもあったので、トビウオとともに3種盛りとする。秋太郎のサクには筋のように見えるものがあるけれど、マグロの筋と違ってほとんど気にならない。ねとっと、そしてさくっとした食感が新しさを物語る。脂のついたマカジキと、爽やかな秋太郎との対比がたのしい。 たくさん刺身を作ると余りが出る。この余り物はてこねずしとする。てこねの作り方はいつも通り。面倒なので手抜きした。さてそのてこねが余る。こういうことは間々ある。志摩ではてこねが余ったら、チャーハンか茶漬けと相場が決まっている。この日は茶漬けにした。熱いめのお茶をづけ身めがけてかけ回す。 てこねの茶漬けは生臭いので、刻んだしょうがを乗せて食べる。志摩人に言わせれば、生臭いのがこのてこね茶漬けの醍醐味なのだそうだ。

カワムツを食べる

カワムツという魚がいる。海のムツではなく、川のムツ。ムツというのは古語である。海のムツといえば今や高級魚の末席にあるような魚だけれど、カワムツはどうだろう。昔持っていた釣魚図鑑には不味と書いてあったし、そのほかの文献を読んでみてもオイカワより味は劣る、とか、とにかく比較的評判が悪いことが多い。私は幼少の頃からオイカワのおいしさを知っていたものの、カワムツについてはこうした事情からかなり最近まで食べる機会を逸していた。そもそも、カワムツはオイカワに比べると川の上流側、淵のような深いところにいることが多くて、私の主な活動範囲である平野部の浅い水路にはなかなか出てこない。少なくとも愛知県ではそうだった。 西日本で一般に川の小魚と言えばオイカワになると思うのだけれど、山手に進むとカワムツに変わる。たしかに、ここ九州でもカワムツはオイカワよりもより上流まで分布している。ヤマソバヤという呼び名は山にいるはやという意味をもつ。この山のハヤがひとびとにとっての重要なタンパク源であったことは疑う余地をもたない。その割に文献資料に欠けるので、やっぱり自分の足で昔の記憶を尋ねて歩く必要があるし、単にハヤとされている資料ではそれがカワムツであったのかオイカワか、またウグイやその他かということが分からない(文脈で分かることもある)。 さてそのカワムツを食べたくて、水辺に出掛けては黒々と群れをなしているところに突っ込んで、大小を取り合わせて持ち帰る。この時期は暑さですぐに肉が痛んでしまうから、よく冷やして持ち帰る。川のハヤは焼いたり揚げたりして食べる分には鱗をとる必要がない。大きなものは腹の中央あたりに包丁の切っ先で小さな切れ目を作り、そこから絞るようにして内蔵を押し出す。口からまっすぐではなく、少し尾がせり上がるようにして串を打つ。すなわち、串の先端は内臓の空洞を通って、臀びれの末端あたりから出す。平たい串を使えばこれでも魚が回ることはない。普通の塩焼きに比べたらかなり多い量の塩を振って、"塩だまり"ができるようなかたちで、手で塗りたくるようにして全身に回す。これをうまく焼き上げたら塩焼きとなる。家庭用の魚焼きグリルでも問題なくできる。はじめは強火で表面の水分を飛ばし、あとは弱火にして25分ほどかけて焼き上げる。焦がしすぎてはいけない。中まで焼けているかどうかという