蒸し暑い梅雨の日がつづく。はやずしは、比較的短期間で乳酸発酵させるなれずしの一種で、琵琶湖ではちんまずし、めずし、あるいは、各魚種の名前を冠して、はいずし、わたこずし、ひがいずしなどと呼ぶ。かつての琵琶湖湖畔には普遍的なものだけれど、売り物になる例は少ない。これを食べるために、寒いうちから塩切りしておいた小魚たちを蒸し暑くなってから鮨漬けし、いよいよ自家製のなれずし(はやずし)の完成に至った。この作り方のメモを書き出す前に、私となれずしの出会い、そして、これまでの付き合いについて書いておきたい。
私の育った愛知県西部には、一切のなれずしがない。魚のすしにはもろこずし、さばずし、あじずし、つなしずし、めじろずし、まきずしなどが伝統的な行事料理としてあるけれども、なれずし、すなわち、熟成によって乳酸発酵させるものとなると全く見当たらない。戦後すぐの頃までは、つなしずしを1月以上重石をして置き、黄色いカビが生えてきた頃合いに食べる食習慣が海岸部に残っていたが、これは現在では完全に廃れている。よくよく考えてみると、乳酸発酵というもの自体になじみがなく、漬け物類についても乳酸の漬け物に乏しい土地柄だ。
北上して山手に入れば、鵜匠家に伝わるあゆずし、さらに山奥に行くとあじめのすしなどがあるし、木曽の谷合にはすぐきの文化が色濃く残っている。三重県においても、祭礼食としてのあゆずし、つなしずしが点在する。いしにえの文献を漁ってみる限りには愛知県西部にも京へと献上するすし(なれずし)が作られていたものと推測される。これがいつの時代か全く消え去ってしまったわけだ。愛知県が醸造酢の一大産地となったことが、そのトリガーになったのかもしれない。
私はもともと、子供時代には酸っぱいものが苦手で、酢の物については中学に上がるまでうまいと思ったことがなかった(ポン酢も苦手だった)。その中にあって不思議とヨーグルトの酸味には全く抵抗がなく、とにかく学校から帰るとおやつにヨーグルトを食べるような子供だった。そんな私がはじめてなれずしを食べたのは高校生に入った頃で、ブルーギルのなれずしだった。これは西三河の鳥居さんに勧めていただいたもので、はじめてのなれずし体験は不思議な酸味、そしてうまみとの出会いに全く不思議な気持ちしか覚えていない。ブルーギルの強固な背鰭の棘がぐにゃぐにゃになっていて、噛むとおもしろい食感だったことを覚えている。鮨に入っていた飯の部分(鮨飯)についてはほとんど食べずに捨ててしまった。ふなずしを食べたのがそのおよそ1年半後で、甲賀の山奥でタモロコの自己水源養殖に取り組まれていたカマチャンさんのお宅で、ごちそうになったものだ。ふなずしを食べたことはありますか?と尋ねられたので、ないと答えたらそれは損している、少し食べていきなさい、ということで、それからご飯を炊き、炊きたてのご飯にメスのすばらしいふなずしを2切れ、そして、味付け海苔を乗せてから薄茶をかけて1分蒸らす。すえたような、あまり食べ物らしからぬにおいとともに、海苔のいい香りがしてくる。これがまことにうまいもので、それ以来ふなずしの味に関する世間のひじょうに残念な噂話に疑問を抱くようになった。シュールストレイミング缶を学校の中庭で爆発的に開封し、オートクレーブにかけたじゃがいもにつけて食べたのもこの頃だ。
大学に入ると、あのときの疑問を解決すべく、ありとあらゆる価格帯、加工業者のふなずしを食べることを始めた。とは言っても、貧乏暇なしの学生時代に高いふなずしは滅多に買えず、ほとんどは安いものを買って食べ比べしていた。その過程では、ぞうきんのような臭いのするとんでもないものなどにも遭遇したけれど、うまい味を知っているからかそれでふなずしをきらいになることはなかった。大学2年の春には阪本屋ではじめて雄のふなずしを買い、雄特有の肉のうまさを知る。この頃になると、単に鮨漬けの技術だけではなくて、フナの質そのものによる振れ幅がなれずしにおいてもよくわかることが分かっていた。
同じく大学2年の頃には湖北水鳥ステーションで多様ななれずしを購入できることを見つけ、ヒガイ、アユ、モロコなどさまざまなものの食べ比べをする。ヒガイは揚げてもそうはうまくないのに、なれずしにするとうまい。そういうことも分かっていく。大学2年次か3年次には自分で釣ったホンモロコでなれずしに挑戦するも失敗してしまう。今思えば、あれは塩漬け期間が全くたりていなかったし、そもそも乳酸発酵のことをよく分かっていなかった。以来長い間なれずしについては作るチャレンジもせずに、もっぱら食べるだけとなった。話が少し逸れてしまうけれども、この頃にはなれずし以外のさまざまな水産加工物に興味をもつようになっていた。特にうまいと思って金沢に行くと必ず食べていたのがかぶらずし(塩漬けのブリの切り身を株で挟んで麹で漬けたもの)で、しかし金沢に行かないと食べることができないし(実際には通販で買える)、意外に割高だ。能登出身の友人から家で作るようなことを聞いて一念発起し、大学4年次からは毎年の冬に一度、決まってかぶらずしを作るようになる。この過程で、できあがったかぶらずしが日を経るごとに乳酸の影響で酸っぱくなっていくことや、年によって同じように作ったつもりでも少しずつ味が異なること、気温や湿度の影響について身をもって知っていくことになるのだった。
大学時代に所属した研究室では、毎年手作りふなずし品評会の上位入賞ふなずしをタダで食べさせてもらう機会に恵まれ、いわゆる近代式のビニールふなずしをこれでもかというくらい食べることができた。この経験は私の中でのふなずしの引き出しを増やすのにたいへん大きな貢献があったと思っている。
大学時代に食べたなれずしはすべて滋賀県のものだった。実は、滋賀県以外のなれずしには入手の難しいものが多い。幸運なことに、鵜匠の作るあゆずし、熊野灘のさんまずし、また京都のふなずしを食べる機会を得て、京都のふなずしについては昔風の香りと味が残っていること、それが味わって分かることを確認した。昨年知り合った琵琶湖の漁師、駒井さんから念願のブナビワマスを分けてもらうことができたことから、これを使ってこけらずしにも挑戦した。こけらずしは、ビワマスを使った"半"なれずしで、スターターに麹を使う。麹漬けが少しずつなれずしに変身していく。つまり、要領としては勝手知ったるかぶらずしに準ずるものだとも言えるのだ。できあがったこけらずしは、琵琶湖で買い求めたこけらずしと食べ比べをしてみたけれど、全く遜色ないどころか、むしろ自分で作ったものの方がうまいように思えた。もう、コントロールできる。ここまできて、次はなれずしだとの思いを強くする。
私の育った愛知県西部には、一切のなれずしがない。魚のすしにはもろこずし、さばずし、あじずし、つなしずし、めじろずし、まきずしなどが伝統的な行事料理としてあるけれども、なれずし、すなわち、熟成によって乳酸発酵させるものとなると全く見当たらない。戦後すぐの頃までは、つなしずしを1月以上重石をして置き、黄色いカビが生えてきた頃合いに食べる食習慣が海岸部に残っていたが、これは現在では完全に廃れている。よくよく考えてみると、乳酸発酵というもの自体になじみがなく、漬け物類についても乳酸の漬け物に乏しい土地柄だ。
北上して山手に入れば、鵜匠家に伝わるあゆずし、さらに山奥に行くとあじめのすしなどがあるし、木曽の谷合にはすぐきの文化が色濃く残っている。三重県においても、祭礼食としてのあゆずし、つなしずしが点在する。いしにえの文献を漁ってみる限りには愛知県西部にも京へと献上するすし(なれずし)が作られていたものと推測される。これがいつの時代か全く消え去ってしまったわけだ。愛知県が醸造酢の一大産地となったことが、そのトリガーになったのかもしれない。
私はもともと、子供時代には酸っぱいものが苦手で、酢の物については中学に上がるまでうまいと思ったことがなかった(ポン酢も苦手だった)。その中にあって不思議とヨーグルトの酸味には全く抵抗がなく、とにかく学校から帰るとおやつにヨーグルトを食べるような子供だった。そんな私がはじめてなれずしを食べたのは高校生に入った頃で、ブルーギルのなれずしだった。これは西三河の鳥居さんに勧めていただいたもので、はじめてのなれずし体験は不思議な酸味、そしてうまみとの出会いに全く不思議な気持ちしか覚えていない。ブルーギルの強固な背鰭の棘がぐにゃぐにゃになっていて、噛むとおもしろい食感だったことを覚えている。鮨に入っていた飯の部分(鮨飯)についてはほとんど食べずに捨ててしまった。ふなずしを食べたのがそのおよそ1年半後で、甲賀の山奥でタモロコの自己水源養殖に取り組まれていたカマチャンさんのお宅で、ごちそうになったものだ。ふなずしを食べたことはありますか?と尋ねられたので、ないと答えたらそれは損している、少し食べていきなさい、ということで、それからご飯を炊き、炊きたてのご飯にメスのすばらしいふなずしを2切れ、そして、味付け海苔を乗せてから薄茶をかけて1分蒸らす。すえたような、あまり食べ物らしからぬにおいとともに、海苔のいい香りがしてくる。これがまことにうまいもので、それ以来ふなずしの味に関する世間のひじょうに残念な噂話に疑問を抱くようになった。シュールストレイミング缶を学校の中庭で爆発的に開封し、オートクレーブにかけたじゃがいもにつけて食べたのもこの頃だ。
大学に入ると、あのときの疑問を解決すべく、ありとあらゆる価格帯、加工業者のふなずしを食べることを始めた。とは言っても、貧乏暇なしの学生時代に高いふなずしは滅多に買えず、ほとんどは安いものを買って食べ比べしていた。その過程では、ぞうきんのような臭いのするとんでもないものなどにも遭遇したけれど、うまい味を知っているからかそれでふなずしをきらいになることはなかった。大学2年の春には阪本屋ではじめて雄のふなずしを買い、雄特有の肉のうまさを知る。この頃になると、単に鮨漬けの技術だけではなくて、フナの質そのものによる振れ幅がなれずしにおいてもよくわかることが分かっていた。
同じく大学2年の頃には湖北水鳥ステーションで多様ななれずしを購入できることを見つけ、ヒガイ、アユ、モロコなどさまざまなものの食べ比べをする。ヒガイは揚げてもそうはうまくないのに、なれずしにするとうまい。そういうことも分かっていく。大学2年次か3年次には自分で釣ったホンモロコでなれずしに挑戦するも失敗してしまう。今思えば、あれは塩漬け期間が全くたりていなかったし、そもそも乳酸発酵のことをよく分かっていなかった。以来長い間なれずしについては作るチャレンジもせずに、もっぱら食べるだけとなった。話が少し逸れてしまうけれども、この頃にはなれずし以外のさまざまな水産加工物に興味をもつようになっていた。特にうまいと思って金沢に行くと必ず食べていたのがかぶらずし(塩漬けのブリの切り身を株で挟んで麹で漬けたもの)で、しかし金沢に行かないと食べることができないし(実際には通販で買える)、意外に割高だ。能登出身の友人から家で作るようなことを聞いて一念発起し、大学4年次からは毎年の冬に一度、決まってかぶらずしを作るようになる。この過程で、できあがったかぶらずしが日を経るごとに乳酸の影響で酸っぱくなっていくことや、年によって同じように作ったつもりでも少しずつ味が異なること、気温や湿度の影響について身をもって知っていくことになるのだった。
大学時代に所属した研究室では、毎年手作りふなずし品評会の上位入賞ふなずしをタダで食べさせてもらう機会に恵まれ、いわゆる近代式のビニールふなずしをこれでもかというくらい食べることができた。この経験は私の中でのふなずしの引き出しを増やすのにたいへん大きな貢献があったと思っている。
大学時代に食べたなれずしはすべて滋賀県のものだった。実は、滋賀県以外のなれずしには入手の難しいものが多い。幸運なことに、鵜匠の作るあゆずし、熊野灘のさんまずし、また京都のふなずしを食べる機会を得て、京都のふなずしについては昔風の香りと味が残っていること、それが味わって分かることを確認した。昨年知り合った琵琶湖の漁師、駒井さんから念願のブナビワマスを分けてもらうことができたことから、これを使ってこけらずしにも挑戦した。こけらずしは、ビワマスを使った"半"なれずしで、スターターに麹を使う。麹漬けが少しずつなれずしに変身していく。つまり、要領としては勝手知ったるかぶらずしに準ずるものだとも言えるのだ。できあがったこけらずしは、琵琶湖で買い求めたこけらずしと食べ比べをしてみたけれど、全く遜色ないどころか、むしろ自分で作ったものの方がうまいように思えた。もう、コントロールできる。ここまできて、次はなれずしだとの思いを強くする。