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お一人様のぼぶら飯

 昔のひとの話にときどき登場するのがかて飯や麦飯だ。日本人が等しく白米の飯を日常的に食べるようになったのはごく最近のことで、それまでは米を節約するために、根菜などを足してかさ増ししたかて飯を食べていた地域がかなりあった。特に水田耕作面積の小さい山間や漁村では、かなりの程度このような飯を主食として食べていたと言って良いだろう。

私がしばし滞在していた志摩地域もそうで、さすがに今はなくなってしまっているけれど、かつてはサツマイモやぼぶら、すなわちカボチャのかて飯を食べていた。山がちなリアス式海岸のつづく志摩半島、特に先志摩の地域は陸路を伝っての物質供給が脆弱なところで、ここでは限られた土地で作ったきんこやぼぶらが食糧として重要な役割を果たしていた。

さてこのぼぶら飯の作り方は聞き書 三重県の食事に記載がある。ただし、たぶんに漏れずこの本の書き方では実際に作ってみることは難しい。今回は私ひとり分の分量で作ってみたので、備忘録として書き付けておく。

ささげ4分の1合をよく洗ってから半日ほど水に浸しておく。ささげ、水1カップを中火で沸かし3分ほどしたらその水を捨てて、また小鍋に戻し、水2カップを加えて20分中弱火で煮る。煮えたら一旦冷ましておく。米2分の1合をさっとといで小鍋に加える。カボチャは4分の1個をたねをスプーンでとり、たてに4等分したら皮を包丁で剥いて、厚さ1.5センチ程度に切っていく。量ってみると皮をとった状態で230グラムだった。皮つき、種つきで350グラム。カボチャを小鍋に加えたら、状況を見て加水する。すなわち、カボチャがひたひたに浸るくらいの水加減とする。中強火で沸かして沸騰したら塩をひとつまみ加える。中火に落としてふたを開けたまま5分、ふたをして弱火にしたら10分加熱し、火を切って10分蒸らす。ふたを開けてみて、水気が多ければもう少し中弱火で加熱してもいい。最後にカボチャを崩しながら混ぜてできあがり。カボチャの適当な甘みが食欲を誘うし、何より見た目があざやかだ。しかし、当時のひとびとにとってみれば、このいやに黄色いぼぶら飯よりも、真っ白な白飯のほうを求めていたことだろう。こういう想像力がないと色々なことを聞き漏らしてしまったり、妙な誤解をもったままになってしまったりする。


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カワムツを食べる

カワムツという魚がいる。海のムツではなく、川のムツ。ムツというのは古語である。海のムツといえば今や高級魚の末席にあるような魚だけれど、カワムツはどうだろう。昔持っていた釣魚図鑑には不味と書いてあったし、そのほかの文献を読んでみてもオイカワより味は劣る、とか、とにかく比較的評判が悪いことが多い。私は幼少の頃からオイカワのおいしさを知っていたものの、カワムツについてはこうした事情からかなり最近まで食べる機会を逸していた。そもそも、カワムツはオイカワに比べると川の上流側、淵のような深いところにいることが多くて、私の主な活動範囲である平野部の浅い水路にはなかなか出てこない。少なくとも愛知県ではそうだった。 西日本で一般に川の小魚と言えばオイカワになると思うのだけれど、山手に進むとカワムツに変わる。たしかに、ここ九州でもカワムツはオイカワよりもより上流まで分布している。ヤマソバヤという呼び名は山にいるはやという意味をもつ。この山のハヤがひとびとにとっての重要なタンパク源であったことは疑う余地をもたない。その割に文献資料に欠けるので、やっぱり自分の足で昔の記憶を尋ねて歩く必要があるし、単にハヤとされている資料ではそれがカワムツであったのかオイカワか、またウグイやその他かということが分からない(文脈で分かることもある)。 さてそのカワムツを食べたくて、水辺に出掛けては黒々と群れをなしているところに突っ込んで、大小を取り合わせて持ち帰る。この時期は暑さですぐに肉が痛んでしまうから、よく冷やして持ち帰る。川のハヤは焼いたり揚げたりして食べる分には鱗をとる必要がない。大きなものは腹の中央あたりに包丁の切っ先で小さな切れ目を作り、そこから絞るようにして内蔵を押し出す。口からまっすぐではなく、少し尾がせり上がるようにして串を打つ。すなわち、串の先端は内臓の空洞を通って、臀びれの末端あたりから出す。平たい串を使えばこれでも魚が回ることはない。普通の塩焼きに比べたらかなり多い量の塩を振って、"塩だまり"ができるようなかたちで、手で塗りたくるようにして全身に回す。これをうまく焼き上げたら塩焼きとなる。家庭用の魚焼きグリルでも問題なくできる。はじめは強火で表面の水分を飛ばし、あとは弱火にして25分ほどかけて焼き上げる。焦がしすぎてはいけない。中まで焼けているかどうかという

雷魚を食べる その1

日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

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ついに福岡にも梅雨本番がやってきた。今年は異常豪雨がないことを願うばかりだ。 さて、魚の背ごしという料理がある。背ごしとは魚を背骨のついたまま、薄い筒切りに仕立てるもの。背ごしになる魚は実は色々いて、ローカルではアジ、イワシ、タチウオ、カマス、エソ、カワハギ、ウマヅラハギ、ヒラメ、フナ、ヤマメといった魚の背ごしを聞き及んでいる。エソの背ごしは茶漬けにすると良いらしい。この料理にとってもっとも重要なのは鮮度で、一般に刺身にするものよりも新鮮なものでなければならない。特にエソについては死ぬとすぐに肉が柔らかくなり、臭いが出てくるから、とりたてのものでないといけないという。尾鷲の漁師はタチウオの背ごしが好物で、定置の水揚げ場でもときたまおやつ代わりの背ごしを作っているひとがいる。 昨日は定番のアユの背ごしを食べた。背ごしは生食なので、天然のものの場合横川吸虫のリスクがある。横川吸虫については多くが無症状、あっても下痢などの症状が出るくらいなので私は気にせず食べているが、ふつうは養殖のものを使った方が安全だ。ただし、背ごしに向いているのはやや小振りな50グラム程度の若あゆである。 アユは鱗を落としてから頭と、腹を縦に割いてハラワタをとる。頭は煮ても焼いても食べられるし、ワタはうるかにでもしたらいい。ボールに氷水を作り、この中で腹の黒い膜や残った内臓、背骨の裏側にある血を指で優しくこすり落とす。 背鰭を根元から切り取ったら、頭の側から幅2ミリから4ミリ程度で筒切りにしていく。厚い方が私は好きだ。私の場合、臀鰭のつけ根あたりまでを使い、そこから後ろは背ごしにはしないで、別の料理に使うが、最後まで背ごしにしてもいい。 ボールに氷水を作り、そこに塩を加えてアユの肉をさらす。塩気は10‰くらいがよい。10分したらザルにあけ、塩気のない氷水に放ってから再びザルにあけ、キッチンペーパーで水気をとる。これを皿に盛ればできあがり。全く簡単な料理だ。 好きならそのまま食べてもうまいし、たで酢や柑橘酢、ポン酢もいい。酢味噌はもちろん、甘みを加えた赤味噌につけて食べるのも悪くない。また薬味となるミョウガや刻んだ大葉、たまねぎ、きゅうり、ハスイモなどと食べるのもいい。暑い時期に飽きの来ない食べ物だ。