岡山にて買うべき食材のひとつにフナミンチがある。フナを骨ごと叩いて、ミンチにしたものだ。これが店頭に並ぶようになると、いよいよ冬を迎えた実感がわいてくるのだという。
岡山のひとびとは冬になるとこのフナのミンチを使ってもっぱらフナ飯を作る。また、飲み屋の〆にフナ飯をこれこれ、と言って食べる。その年齢層は少しずつだが高年齢化していて、そこには生きた文化としての退縮を感じざるを得ないところだ。自宅で包丁で叩かなくても手軽にフナ飯を作れる環境になったことで、フナとひととの距離が離れてしまったのではないだろうか。しかし、これは鶏と卵の問題かもしれない。
昨シーズンは明らかな暖冬で、フナミンチがめっきり売れなかったという。これは川魚商にとっては大問題なのだけれど、私などはフナ飯が生活の中に息づいているからこそ、このような変動があるのだと思うし、そこにフナ飯のもつ底力を感じてしまうのだ。
フナ飯は岡山にひじょうに特異な文化のように思われるけれども、魚の身を叩いて、汁にしてご飯やそうめんにかける、という文化は瀬戸内海西部一円に普遍的に存在するものだ。その中に児島湖、またその岡山平野があり、食材としてのフナがたたき身になってきたと解釈すべきだろう。
さて、今年のフナミンチの具合がどうか気になり、岡山から適量を送ってもらう。岡山からなら翌日には着くし、また翌々日になっても品物は悪くならないので安心して買い求めることができる。
フナミンチのよしあしは、だいたい炒め始めた時点で分かる。かび臭かったり、排水臭くない、そしてその分うまみの香りが漂ってくる。こういうフナは当たりである。ところで、昨シーズンに岡山を再訪した折りには、たくさんの話者からフナ飯や川魚、その他の食生活に関する昔話をうかがうことができた。中でも印象的だったのは、今どき店で食べられるものは野菜が多すぎて、フナ飯じゃない!と憤っておられた方で、戦前の生まれ。ではどういうものが正しいのか、ということを聞いてきていたので、この日はその、"正しい"ふなめしを作ってみる。
ごぼう2分の1本はささがきにして水にさらす。にんじん小1本をやや粗い細切りにする。これは少し斜めに削ぐように切ったものを、細くばらばらにすればよい。すしあげひとつを半分に切り、細切りする。
フライパンにサラダ油大さじ3加えて熱し、ここにフナミンチ120グラムを加えて炒めていく。フナミンチは塊になっているから、木べらで塊をほぐすようにして中火で炒めていく。フナの肉に完全に火が通ってから、ごぼうとにんじんを加えて1分ほど、表面に油をまとう程度でいいので炒める。水300ccを加えて強火で熱する。沸騰してきたら中火にしてあくを丹念に掬う。あくがだいたい出なくなったら、再び水300ccを加えて、強火で沸騰させてあくをとる。中火にしてすしあげを加えたら濃口醤油大さじ2、うすくち醤油大さじ1で調味し、また5分ばかり煮るとできあがる。これが二人分。疲れているときにはもう少し醤油が多い方がいい。
茹でて水で締めておいたそうめんを湯につけて温めたら、器に盛ってフナの汁を具とともにかける。もちろん、白いご飯にかけてもよい。そこは気分次第だ。 ふなめしを楽しんだあと、残っていたフナミンチはたたき汁や焼き物にして食べた。いずれもフナの良さの感じられる、すばらしいものだった。