スキップしてメイン コンテンツに移動

茶粥のこと

 私はよく茶粥を食べる。とは言っても朝の余裕のないことだから、実際には月に2、3回の程度で、茶漬けと同じくらいである。

はじめて茶粥の話を聞いたのはもう20年も前の愛知県西部、蟹江町でのことで、少なくともこの当時はまだ茶粥の食習慣を残しているひとたちがいた。蟹江のひとは茶がすきだ。蟹江から津島にかけての地域では野点の習慣があり、もちろんすべてでは農作業の合間に畦道に座って抹茶を楽しんだ。蟹江の本町筋やそのまわりでは、ふなみそを炊くときに茶を使うのが主流である。他方、茶粥、こめぢゃには普通の茶ではなくて、カワラケツメイ(こめぢゃの葉)が使われるのが特徴だ。しかもこの文化は蟹江の町筋ではなくて、かつての漁師町、舟入のあたりが主である。伊勢湾の沿岸地域には各地に茶粥の文化がある、あったことが分かっているけれども、蟹江はその最北端にあたる。カワラケツメイは攪乱のおきやすい河原や、河川堤防のようなところに生える野草で、かつて木曽川の分流、あるいは元々本流であった蟹江川や善太川を擁するこの町の周辺でも採取できたのだろう。実際に、この草を専門に食べるツマグロキチョウが昭和40年代まではたくさんいたらしい。もちろん今は川に河原などないから、たまに家の新築などで地面が露になったときなどに少しだけ生える程度になっている。

蟹江での茶粥の原体験があり、その後各地にさまざまな茶粥があることを知った。茶粥の本流は関西であって、そこでは今は番茶が使われている。でも、弘法茶と呼んでカワラケツメイを使う地域も残っているらしい。そもそも、番茶とケツメイ茶は風味がよく似ていて、栽培しやすい番茶に少しずつ置き換わった結果なのではないかと思う。私は、今の家ではケツメイ茶と番茶、どちらも使っている。青森には今もカワラケツメイの茶粥があるらしくて、これも一度食べてみたい。佐賀には粉茶を使った茶粥がある。これには手早くできる利便と、粉茶を無駄にしないようにするという知恵があったのかもしれない。今ではそこそこいい茶を使うのでおいしい。

さて、番茶を使った基本的な茶粥、手抜き茶粥の作り方を書いておきたい。1人前がだいたい米0.3合。これをよくよく研いでから、小鍋(本当は少し大きめがいい)に水2.5カップ、それと一度出したあとの番茶のティーパックを加えて強火にかける。このティーパックは1人前のものではなくて、一度に4人分程度出せるようなものだ。そのまま強火にしていると吹き零れるので、ぎりぎり吹き零れない程度に火を弱めて、20分炊く。この茶粥づくりのコツはとにかく強い火で炊くことで、緩い火ではうまくない。茶の出る具合によっては途中で茶袋を取り出す。15分くらいしたところから少しずつ汁に粘りが出るので、そこでこぼさないように注意することだ。20分で火を止め、米を噛んでみて芯がとれていたらできている。ここに塩をほんの少しだけ加えてもいいし、もちろんそのままでもいい。また好みの梅干しを乗せて食べるのもいい。

このブログの人気の投稿

雷魚を食べる その1

日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

カワムツを食べる

カワムツという魚がいる。海のムツではなく、川のムツ。ムツというのは古語である。海のムツといえば今や高級魚の末席にあるような魚だけれど、カワムツはどうだろう。昔持っていた釣魚図鑑には不味と書いてあったし、そのほかの文献を読んでみてもオイカワより味は劣る、とか、とにかく比較的評判が悪いことが多い。私は幼少の頃からオイカワのおいしさを知っていたものの、カワムツについてはこうした事情からかなり最近まで食べる機会を逸していた。そもそも、カワムツはオイカワに比べると川の上流側、淵のような深いところにいることが多くて、私の主な活動範囲である平野部の浅い水路にはなかなか出てこない。少なくとも愛知県ではそうだった。 西日本で一般に川の小魚と言えばオイカワになると思うのだけれど、山手に進むとカワムツに変わる。たしかに、ここ九州でもカワムツはオイカワよりもより上流まで分布している。ヤマソバヤという呼び名は山にいるはやという意味をもつ。この山のハヤがひとびとにとっての重要なタンパク源であったことは疑う余地をもたない。その割に文献資料に欠けるので、やっぱり自分の足で昔の記憶を尋ねて歩く必要があるし、単にハヤとされている資料ではそれがカワムツであったのかオイカワか、またウグイやその他かということが分からない(文脈で分かることもある)。 さてそのカワムツを食べたくて、水辺に出掛けては黒々と群れをなしているところに突っ込んで、大小を取り合わせて持ち帰る。この時期は暑さですぐに肉が痛んでしまうから、よく冷やして持ち帰る。川のハヤは焼いたり揚げたりして食べる分には鱗をとる必要がない。大きなものは腹の中央あたりに包丁の切っ先で小さな切れ目を作り、そこから絞るようにして内蔵を押し出す。口からまっすぐではなく、少し尾がせり上がるようにして串を打つ。すなわち、串の先端は内臓の空洞を通って、臀びれの末端あたりから出す。平たい串を使えばこれでも魚が回ることはない。普通の塩焼きに比べたらかなり多い量の塩を振って、"塩だまり"ができるようなかたちで、手で塗りたくるようにして全身に回す。これをうまく焼き上げたら塩焼きとなる。家庭用の魚焼きグリルでも問題なくできる。はじめは強火で表面の水分を飛ばし、あとは弱火にして25分ほどかけて焼き上げる。焦がしすぎてはいけない。中まで焼けているかどうかという

秋になったら秋太郎

秋太郎という魚がある。鹿児島の秋告魚、バショウカジキのことだ。この魚はバレンと呼ばれることもあるけれど、たいていは秋太郎と名して流通している。この魚が店頭に姿を見せると秋がやって来たことをぐっと実感する。バショウカジキはフウライカジキと並んで安いカジキの代表のように思われているが、鹿児島では少しいい値がついている。この頃は福岡でも手に入ることがあり、流通に感謝するよりほかない。でも、さすがにワタは福岡ではお目にかかることができないから、やはり鹿児島へ行く必要がある。カジキのワタはうまい。 この日はたまたま、日本海の定置網に入ったマカジキもあったので、トビウオとともに3種盛りとする。秋太郎のサクには筋のように見えるものがあるけれど、マグロの筋と違ってほとんど気にならない。ねとっと、そしてさくっとした食感が新しさを物語る。脂のついたマカジキと、爽やかな秋太郎との対比がたのしい。 たくさん刺身を作ると余りが出る。この余り物はてこねずしとする。てこねの作り方はいつも通り。面倒なので手抜きした。さてそのてこねが余る。こういうことは間々ある。志摩ではてこねが余ったら、チャーハンか茶漬けと相場が決まっている。この日は茶漬けにした。熱いめのお茶をづけ身めがけてかけ回す。 てこねの茶漬けは生臭いので、刻んだしょうがを乗せて食べる。志摩人に言わせれば、生臭いのがこのてこね茶漬けの醍醐味なのだそうだ。