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ぶり大根

 ブリと言えばぶり大根というくらい、ぶり大根はポピュラーな料理だ。ブリと大根を醤油などで味付けて炊いたもので、元来は骨周りやかま、頭などのあらを使った料理だったはず。それがいつの間にか切り身の料理に変化してきている。ブリには間違いなく部位ごとになすべき料理がある。骨周りはぶり大根、腹のところを含めた切り身は塩焼き(ただし粕漬けも捨てがたい)、かまも塩焼き。で、尾の身を刺身につくる。一昔前にはブリを一本、または半身で買うことがわりとあったので、このようにして消費していた。なおぶり大根を覚えたのは自分の家庭の料理からであり、これはスーパーの魚屋で売られているあらの部分(かまと切り身を除いた部分)を買ってきて作っていたものだ。

ぶり大根については基本をおさえておけばなんにも工夫は要らない。ブリと大根は下茹でする。大根は大きめのものを半分ほど、好みの厚さ、だいたい少し厚めに切って、庶民なので皮は薄く剥く。厚めに剥くとあるレシピがあるがこれだと大根の甘みが十分でない。ブリのあら(私は骨と腹のすいたところしか使わない。頭も入れていい)は表面を洗い流しておく。今回はだいたい6キロのブリの骨と腹、そして中骨のまわりの部分を半分使う。鍋に大根を並べてかぶるくらいの倍になるくらい、たっぷりと水を加えて中火にかける。沸騰したらここにブリのあらを乗せて、表面に火が通ったら一気にざるにあける。ブリは冷水で洗い、骨の周りについている血のかたまりや、表面のぬめりをある程度落とす。鍋に大根とブリを戻し、かぶるくらいの水と、酒を2分の1カップ、梅干しを二個、しょうがを少量(ただし厚めに切る)加えて中火にかける。好みでこんにゃくや厚揚げを入れても構わない。ぼこぼこと煮たってしばらくあくが出るのでこれをしっかり取る。ここへ好みの砂糖を加えて、十分溶けてから少しの濃口醤油を加えて15分ほど煮る。その後、残りの醤油を加える。このとき、先に入っている砂糖の甘みに少しずつ醤油味を足していくイメージで、細かく味見しながら進めてここだという量で止める。砂糖は中双糖を2分1カップほど使ったものだから、醤油もだいたい同じくらいの量だったのではないか。醤油を加え終えたら必要に応じて落し蓋をして30分弱火で炊く。蓋も乗せる。この状態で一晩置く。

翌日また弱火にかけて、30分ほど煮る。味を見て、甘みや醤油味が薄ければ足す。


この料理でもっともうまいのは間違いなく骨の周りに薄くまとった肉だ。これが煮返すうちに芯まで味が入りホロホロになる。したがって、よりうまいのはさらに翌日だ。ただし、ぶり大根の骨周りがうまいからといって、おろすとき骨周りにたっぷり肉をつけるようなことをしてはいけない。この部位の肉が薄いのがいいのであって、厚くしては切り身に同じだ。

もちろん次点となるのは大根で、大根とブリのあらが相互にうまみ甘みを交換する。これがぶり大根ならではの味ということになる。

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雷魚を食べる その1

日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

カワムツを食べる

カワムツという魚がいる。海のムツではなく、川のムツ。ムツというのは古語である。海のムツといえば今や高級魚の末席にあるような魚だけれど、カワムツはどうだろう。昔持っていた釣魚図鑑には不味と書いてあったし、そのほかの文献を読んでみてもオイカワより味は劣る、とか、とにかく比較的評判が悪いことが多い。私は幼少の頃からオイカワのおいしさを知っていたものの、カワムツについてはこうした事情からかなり最近まで食べる機会を逸していた。そもそも、カワムツはオイカワに比べると川の上流側、淵のような深いところにいることが多くて、私の主な活動範囲である平野部の浅い水路にはなかなか出てこない。少なくとも愛知県ではそうだった。 西日本で一般に川の小魚と言えばオイカワになると思うのだけれど、山手に進むとカワムツに変わる。たしかに、ここ九州でもカワムツはオイカワよりもより上流まで分布している。ヤマソバヤという呼び名は山にいるはやという意味をもつ。この山のハヤがひとびとにとっての重要なタンパク源であったことは疑う余地をもたない。その割に文献資料に欠けるので、やっぱり自分の足で昔の記憶を尋ねて歩く必要があるし、単にハヤとされている資料ではそれがカワムツであったのかオイカワか、またウグイやその他かということが分からない(文脈で分かることもある)。 さてそのカワムツを食べたくて、水辺に出掛けては黒々と群れをなしているところに突っ込んで、大小を取り合わせて持ち帰る。この時期は暑さですぐに肉が痛んでしまうから、よく冷やして持ち帰る。川のハヤは焼いたり揚げたりして食べる分には鱗をとる必要がない。大きなものは腹の中央あたりに包丁の切っ先で小さな切れ目を作り、そこから絞るようにして内蔵を押し出す。口からまっすぐではなく、少し尾がせり上がるようにして串を打つ。すなわち、串の先端は内臓の空洞を通って、臀びれの末端あたりから出す。平たい串を使えばこれでも魚が回ることはない。普通の塩焼きに比べたらかなり多い量の塩を振って、"塩だまり"ができるようなかたちで、手で塗りたくるようにして全身に回す。これをうまく焼き上げたら塩焼きとなる。家庭用の魚焼きグリルでも問題なくできる。はじめは強火で表面の水分を飛ばし、あとは弱火にして25分ほどかけて焼き上げる。焦がしすぎてはいけない。中まで焼けているかどうかという

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