切り身と料理の更新がない、ということは、私の生活になんらかの問題が生じている、ということだ。そのような状況は今もつづいているのだけれど、年度も変わったことだし、もう少し生活に時間を使うくらしに戻したいと思っている。
このシーズンは12月にひうお、すなわちアユの子供をとりに琵琶湖の船に乗りに行く予定だった。それが暴風で流れ、1月末の再訪はコロナで阻まれ、どうしようもない状態がつづいた。予定がダメになると、気持ちがダメになる。仕方がないと分かっていてもやっぱりダメになる。そういうことがこの2年続いていて、私の心は荒れ果てている。
いまがコロナの谷間だ。今年は雪が多くて琵琶湖の季節が遅れているから、まだ、ひうおに会えるかもしれない。そう思って4月の頭、あらゆる予定をかなぐり捨てて京都のにょろぴょんくん、ハタツモリくんのところへ満身創痍で転がり込んだ。湖西から北へ上がると、やはり山頂にはまだ雪が残っていて、川の水はこの時期見たことがないくらいに多い。
琵琶湖の北部の主要な川には簗がかけられる。これは登り簗であり、たいていは川の河口近く、3月に簗かけが始まり、春はウグイ、そのあと夏にかけてアユやハスを捕る。ところが今年は雪しろの影響で簗がかかっているのは安曇川だけで、他の川にはまだ、なかった。一切のハードルのない春の川にはものすごい量のウグイが押し寄せていて、手で容易につかめるほどにたくさんいた。
琵琶湖には季節ごとに旬の湖魚がある。しかしいちばんいいのは冬の終わりから春のはじめにかけてで、それはひうおとイサザがあるからだ。幸運にも今年はまだひうおがあった。ほとんどは捕れてすぐに釜揚げになるが、朝どれのものの一部が生のままで売られている。ひうおは湖のしらすで、やはりしらすと同じく鮮度の落ちるのは早い。だから釜揚げで食べるなら生のものではなくあらかじめ加熱してあるものを買って食べた方が断然おいしい。作り手によって塩加減はかなり異なる。そのまま食べてもちろんうまいものだが、これを炊いて食べることもできる。
生のひうおが手に入ったら、手早く炊いて佃煮としたり、豆とともにひうお豆にする。そのほか、一部の漁村集落ではひうおごはんにする。研いだ米に水を加えて火にかけ、吹いてきたらひうおを乗せるように加えて炊く。壬生菜やせりなど、そのときにある青い菜を細かく刻んで蒸らすときに加える。味付けは醤油だけのシンプルなものだ。
イサザはハゼの仲間で、驚くほどに骨が柔らかい。これも炊いてもいいけれど、必ずしも濃い味にする必要はない。うまみが強くて、いやみがない。だから豆腐や油揚げなんかと薄味で汁っぽく炊いておかずにしてもいい。なんといっても素晴らしいのはじゅんじゅん(鍋)だ。たっぷりの水に本だしを少し加えて、にんじんや豆腐、こんにゃくなどあるものを加える。しょうゆと酒と砂糖で味付けしたら、強火にしてねぎをどっさり加えて浮き巣のようにして、その上にイサザを好きなだけ加える。10分も経たずに火が通るので、すぐに食べる。イサザの食感は表面が粘液のためかとろっとしていて、肉は柔らかいのに不思議と味がある。イサザだけの味でも構わないが、汁気が多くて薄まるのでわずかの本だしをまとうと飽きない味になる。
琵琶湖のまわり、いくつかの古い町にはまだ湖魚の専門店が残っているから、食材となる湖魚はそこで買い求めることができる。専門店のない地域であっても、道の駅や直売所にもいくつかいいところがある。昔は行商が滋賀県全域をカバーしていた。