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きなこもち

私は小さい頃異常なほどにきなこもちが好きで、このもちをしょっちゅう食べていた記憶がある。このあるごとに祖母からもらうつきたてのもち、そして近所の振る舞いで年に数回我が家にやってくる五目もち(ただしこういう呼び名があったわけではない)の中でも真っ先に食べていたのがきなこもちだった。それがいつしかあまり食べなくなり、家でせがむこともなくなった。おそらく、中学に上がる頃には自分の中での“流行り”は終息していた。

ところで最近はときたまきなこもちが食べたくなることがある。それで、我が家には上等なきなこを常備することにして、食べたいときにきなこもちを食べる。

はじめてきなこの調合を任された時、こんなにたくさんの砂糖を入れないと理想の味にならないのか、と思ったものだ。それはポテトサラダにマヨネーズが思ったよりもたくさん入っていることに似ている。きなこ(味付けきなこ)はとにかくたくさんあった方がいいから、余ってもいいのでたくさん作る。当たり前だがきなこというのは大豆の粉で、おのずから甘みがあるわけではないので自分で調合する。分量はきなこと、上白糖をかさで等量入れてかまわない。少し甘さを控えるなら、上白糖の量はきなこの8割程度にする。ここに塩を少々加える。きなこの総量にもよるので少々としか書けないけれど、少なくともたしかに塩が入っていると感じられる程度に加える。ぜんざいにも塩が入っているでしょう、この塩が大事。もちは解凍したら焼いて、焼き上がったものを沸騰した湯に放り込む。20から30秒ほどで取り出し、きなこをたっぷりとつけて食べる。焼いただけではもちの表面にきなこがつかない(小学生の自分の失敗を書いている)。

きなこは、一度つけるだけにしないで、ひとくち食べては断面にまたつけ、を繰り返して食べていく。昔、きなこもちをたくさん食べる時に、湯を横に置いて、湯にもちを通しながら食べていたような記憶がある。あれはどこの記憶だろうか。ちなみに、きなこもちにさらに佃煮の汁をかけて食うとうまい。



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日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

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