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走りのスズキで吸い物

暑い、あつい、あつい。こんなに暑いととたんにバテてしまう。魚を見てもなかなかいいものがない。これだけ暑いと、魚たちも次第に初夏の装いになってくる。
走りのスズキでいいのがあったので、刺し身で食べてみる。スズキという魚は季節を選ぶ。旬は夏で、冬が近づくにつれて卵が入り、どんどん肉が痩せていく。産卵直前から直後のものはぼろぞうきんとかねこまたぎなんて呼ばれて、いくら安くても絶対に買おうとは思わない。これが4月も半ばを過ぎると質のいいものが出始める。夏が旬とは言っても、それを先取りしているものが必ずいる。スズキは顕著な季節性に加えて、個体差が激しいことも特徴なのだけれど、いいものの身にはほのかで上品な甘みがある。これが分からなくならないようやや厚めに造り、しょうゆをほんのわずかに付けて食べる。こんなスズキが出てくると、もう夏もすぐそこだなと思ったりする。


いいものは身の色つやで分かる。ただ、明文的にあらわすのはむずかしい。スズキは熟成なんてさせないで、とにかく身の活かったものを食べるべきだ。
さてこのスズキを一目見て、頭に吸い物の図が思い浮かぶ。それで、頭と腹のところのあらを分けてもらってくる。スズキは皮に川魚を思わせるにおいがあるので、振り塩をして少し置き、しっかりめに湯引いてから使うのが鉄則。単に湯をかけるよりも、沸騰した小鍋に直接入れて、少し煮たほうがいい。これをざるにとって冷水をかけ、わずかに酒を加えた水で煮る。沸騰してきたらあくを丁寧に取る。スズキは他の魚に比べて身離れが良すぎるので、あら、特に頭はあまり小さく潰さないで、大きいまま使った方がいい。だいたいあくが出なくなったら薄口醤油と少しのみりん、塩で調味する。


潮汁と似ているけれど、私の基準ではしょうゆを加えたら吸い物。なのでこれは吸い物だ。ヒラスズキなら潮汁にするし、スズキなら吸い物か味噌汁ということになる。

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雷魚を食べる その1

日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

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