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日本人のふつう

このブログはツイッターのメモとしての役割を担っている。昨日はこんなツイートと、それに対する種々の反応を見た。

https://togetter.com/li/1516776

ツイートの埋めこみってのをやってみたかったのだけれど、うまくいかなかった。ちょうどいいところにまとめられていたのでリンクを転記。
さて、いつからこんな不思議が普通になってしまったのだろう。昨日呟いていたとおり、われわれ日本人もつい最近までは毎日ほぼ同じものを食べていた。昭和40年代まで、毎日ちがうものを食べるというのは明確なぜいたくだった。そこに総中流ってのがあって、みんながそれを目指した結果として、今があるのだ。給食の影響という声があるがこれはあまり正しいとは言えない。今のようにある程度毎日メニューが変わる給食になったのは昭和40年代以降、ほとんど今と同じになったのは米飯給食の始まった昭和50年代以降で、戦後すぐの頃には毎日パンと脱脂粉乳だった。われわれ自身の努力によって毎日ちがうものを食べるという食習慣を獲得したわけだ。1日朝昼晩の3食、あるいは朝食抜きで2食という習慣だって、最近広く定着したものだ。それまでは1日1食というひとびともそれなりにいた。このような食習慣の激変がいま、かえって重荷になってしまっているというのはたいへん皮肉な状況にあると言える。だって、われわれ自身が望んでこれを獲得してきたのだから。
農文協の日本の食生活全集には、取り上げた地域での農事歴などに加えて、各季節の朝食、昼食、夕食の例がたいてい写真付きで紹介されている。これを読んで最初に感じたのは、日常(ケ)の食事例が各季節につき一例ずつしか載っていなかったがゆえの物足りなさだ。最初に受けた印象は、全く平成を生きる日本人としては当たり前のもので、すなわち例が少なすぎる、もっと他にも例を詳しく載せてくれというものだった。しかしそれは全く見当違いな、的外れなわがままだったことがしばらくして分かった。そもそも各季節の食事は一例を掲載すれば十分な多様度だったのだ。現在の給食の毎日の転換を10段階の8とするならば、昭和30年代以前の毎日の転換はせいぜい1か2、あるいは0だ。転換の要因となるのはこの国の気候風土による生物資源の特徴で、天変地異が多すぎるし、平野が少なすぎる。単一のものに依存するとあっという間に飢餓を迎えてしまうので、色々なものを食べざるを得ない。こういう部分がその1か2に当たる部分だ。そもそも論で言えば、米を毎日食べるというふつうですら、全国的には最近獲得されたものだ。昔は雑穀飯や、麦などを食べていた。米そのものがぜいたく品だったわけだ。
こうしたある意味モノクロな日常(ケ)の食に対して、ぜいたくに心を尽くしたのがハレの食事だ。ハレの日は、正月や稲の収穫後など限られた日にしか存在し得ないものだった。郷土料理を調べる上では、それがケのものだったのかハレのものだったのか、頭の片隅で考えておくべきだ。
日本人でのふつう、みたいのは、少なくともいつからそうなのか、なぜそうなったのか、ということを、その都度考えるべきだ。食習慣も、なにもかも。だれのふつう、なにのふつう、いつのふつう。ふつうという言葉に敏感になることは、日々をおもしろくするひとつの工夫でもある。

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雷魚を食べる その1

日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

秋になったら秋太郎

秋太郎という魚がある。鹿児島の秋告魚、バショウカジキのことだ。この魚はバレンと呼ばれることもあるけれど、たいていは秋太郎と名して流通している。この魚が店頭に姿を見せると秋がやって来たことをぐっと実感する。バショウカジキはフウライカジキと並んで安いカジキの代表のように思われているが、鹿児島では少しいい値がついている。この頃は福岡でも手に入ることがあり、流通に感謝するよりほかない。でも、さすがにワタは福岡ではお目にかかることができないから、やはり鹿児島へ行く必要がある。カジキのワタはうまい。 この日はたまたま、日本海の定置網に入ったマカジキもあったので、トビウオとともに3種盛りとする。秋太郎のサクには筋のように見えるものがあるけれど、マグロの筋と違ってほとんど気にならない。ねとっと、そしてさくっとした食感が新しさを物語る。脂のついたマカジキと、爽やかな秋太郎との対比がたのしい。 たくさん刺身を作ると余りが出る。この余り物はてこねずしとする。てこねの作り方はいつも通り。面倒なので手抜きした。さてそのてこねが余る。こういうことは間々ある。志摩ではてこねが余ったら、チャーハンか茶漬けと相場が決まっている。この日は茶漬けにした。熱いめのお茶をづけ身めがけてかけ回す。 てこねの茶漬けは生臭いので、刻んだしょうがを乗せて食べる。志摩人に言わせれば、生臭いのがこのてこね茶漬けの醍醐味なのだそうだ。

カワムツを食べる

カワムツという魚がいる。海のムツではなく、川のムツ。ムツというのは古語である。海のムツといえば今や高級魚の末席にあるような魚だけれど、カワムツはどうだろう。昔持っていた釣魚図鑑には不味と書いてあったし、そのほかの文献を読んでみてもオイカワより味は劣る、とか、とにかく比較的評判が悪いことが多い。私は幼少の頃からオイカワのおいしさを知っていたものの、カワムツについてはこうした事情からかなり最近まで食べる機会を逸していた。そもそも、カワムツはオイカワに比べると川の上流側、淵のような深いところにいることが多くて、私の主な活動範囲である平野部の浅い水路にはなかなか出てこない。少なくとも愛知県ではそうだった。 西日本で一般に川の小魚と言えばオイカワになると思うのだけれど、山手に進むとカワムツに変わる。たしかに、ここ九州でもカワムツはオイカワよりもより上流まで分布している。ヤマソバヤという呼び名は山にいるはやという意味をもつ。この山のハヤがひとびとにとっての重要なタンパク源であったことは疑う余地をもたない。その割に文献資料に欠けるので、やっぱり自分の足で昔の記憶を尋ねて歩く必要があるし、単にハヤとされている資料ではそれがカワムツであったのかオイカワか、またウグイやその他かということが分からない(文脈で分かることもある)。 さてそのカワムツを食べたくて、水辺に出掛けては黒々と群れをなしているところに突っ込んで、大小を取り合わせて持ち帰る。この時期は暑さですぐに肉が痛んでしまうから、よく冷やして持ち帰る。川のハヤは焼いたり揚げたりして食べる分には鱗をとる必要がない。大きなものは腹の中央あたりに包丁の切っ先で小さな切れ目を作り、そこから絞るようにして内蔵を押し出す。口からまっすぐではなく、少し尾がせり上がるようにして串を打つ。すなわち、串の先端は内臓の空洞を通って、臀びれの末端あたりから出す。平たい串を使えばこれでも魚が回ることはない。普通の塩焼きに比べたらかなり多い量の塩を振って、"塩だまり"ができるようなかたちで、手で塗りたくるようにして全身に回す。これをうまく焼き上げたら塩焼きとなる。家庭用の魚焼きグリルでも問題なくできる。はじめは強火で表面の水分を飛ばし、あとは弱火にして25分ほどかけて焼き上げる。焦がしすぎてはいけない。中まで焼けているかどうかという