エツというのは最大で50センチ、だいたい40センチほどになるカタクチイワシ科の魚で、日本では有明海の奥部だけに分布している。本種は中国や朝鮮半島にもいて、近縁の種は東南アジア各地やインド洋にも分布しているけれど、日本にはエツだけだ。エツの体は非常に特徴的で、平たい銀白色の体は細く刀のように伸長している。長い臀ビレ、長い上顎など、とにかく国内では他の魚にないユニークな特徴をあわせ持っている。エツが育つのは海の中だが、本種の生活史は川とは切っても切り離せない。本種の卵は塩分がごく少ない場所でしかうまく孵ることができないから、産卵期にもなると川の上流まで遡上してくる。これを捕らえるのがエツ流し網で、濁った川の水に丈1.5メートル、長さ150メートル程度の網を流して、川の上流へと移動するエツを引っ掛ける。エツの良し悪しは、鱗の剥がれ具合で分かるという。エツの流し網は単純な一枚の刺し網で、ここにちょんがけのように掛かったものを最低限しか触らないで手際よく外す。この時、鱗がたくさん剥がれたり、ヒレにうっ血が出てはダメなのだ。イワシの仲間であるエツの鱗はきわめて薄く、当然とても剥がれやすい。エツは、筑後川で金の砂を食んで、真にうまくなる、というのが川の漁師に言い慣わされてきた逸話だ。たしかに、川で採れるエツは海のものよりも金色が強く感じる。成熟が一気に進んでからだ全体に力がみなぎっている。この時期のエツは脂があり骨も柔らかくなるが、卵を産んで海に帰る頃には骨が硬くなって刺身には不向きになるらしい。弘法大師も海のエツまでは気を配ることができなかったようだ。
さてそんな繊細な魚なものだから鮮度が落ちるのも早くて、生食できるようなものの流通はほとんど筑後川の下流周辺に限定されている。料理屋にエツのコースを注文すると、ランチなら朝漁、夕食ならば昼漁(夕方に流す)のものを漁師から取り寄せて使う。朝のものを夜に使うことはできないからだ。そのエツの漁期には遊覧船(エツ船)の運航があって、エツ料理を食べながらエツ漁をする小舟(狩り舟)を眺めることができる。こうした舟遊びはかつて日本各地にあったものだけれど、今も残っているのはほとんどが鵜飼い(アユ)だけで、エツを対象としたこの遊びが現在まで残っているのは奇跡的としか言いようがない。その奇跡を体験しに、この週末に興味のある人間を集めて筑後川は大川市に行ってきた。一人では実現不可能なことなので、集まっていただいた方には頭が上がらない。
エツ船の利用者は、意外にも大川の周辺が多いという。大川のエツ愛好者は、この魚の時期には毎日、あるいは毎週のようにエツを食べるし、エツはスーパーや鮮魚店で手に入る、それほど高級でもない魚だ。それでもわざわざエツ船に乗るのは、船の上でしか味わうことのできないとれたての刺身を求めてのことでもある。エツの肉は死亡後ただちに硬直して、その後どんどん劣化していく。料理店では可能な限り新しいものを出しているわけだし、時間を置く必要がある場合には軽く洗いにして長持ちさせる。ところが、エツの肉の甘さが最大級に引き出されるのは採れたその時なのだ。狩り舟が取り上げたエツを船に移したら、船頭はただちに仕事にかかる。鱗、頭、腹、臀びれ背びれを大胆に外し、背骨を取り除いたものを1.5ないし2ミリ程度の厚さでリズムよく刻んでいく。刻んだ身は皿の上に平たく盛り付ける。山を作るといちばん下の肉が自重で傷んでしまうから、一皿に盛ることのできる量は限られている。そうしてつくられた刺身のうまさは、これまでのどのエツをも凌ぐもので、甘みだけでなく、まだ硬直があまり効いていない肉の柔らかさもある。うっすらピンクに色づいているその刺身は、30分も経つと魅力を失ってしまう。参加者一同、雰囲気だけでなく、「エツは船で食べるもの」という言葉の説得力を自らの舌をもって実感した。
エツの権利をもつ川の人々は、毎日のように川に出掛けてエツを採り、また毎日のようにエツを食べている。毎日エツを食べることはこの時期の当たり前の光景であり、その当たり前を続けられる尊さと、難しさを彼らは毎年のように水や魚と触れながら痛感している。筑後川でのエツの漁獲量はかつて福岡県だけで100トンを超えていたが、近年では20トンを切ることも珍しくはない。その裏にはこれ以上資源を減らすまいとする涙ぐましい採卵と種苗放流事業があり、筑後大堰の建設によって広大な低塩分地帯が失われたという背景がある。