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高知の旅 その1 とんごろいわし

高知ではとんごろ、とんごろー、あるいはとんごろいわしと呼ばれる魚を食べている。この魚、一般には下魚雑魚であって、定置網の漁獲に混ざってもたいてい捨てられている、かわいそうな魚である。この魚を専門に捕って、比較的高値で流通させているのが何を隠そう高知県だ。特に柏島の周辺では、水が冷たくなってくるととんごろー網という、とんごろーを専門に捕る刺し網の漁が始まる。捕れたものは素揚げか、またはさつま汁(つみれ汁のこと)で食べられている。 さてこのとんごろー、標準和名で言うところのトウゴロウイワシだと思われているが、これは多くの場合に誤りである。トウゴロウイワシは内湾性が強く、高知県ではほぼ浦戸湾と、浦ノ内湾にしかいないと言ってよい。他で捕れるのはほとんどギンイソイワシで、これがとんごろーと呼ばれている。なお、柏島のあたりでは他に南方性のヤクシマイワシも漁獲されている。体高があるので、ひらとんごろと呼ばれている。こちらは基本的に地元で消費され、流通に乗ることはない。区別する場合ふつうのとんごろ、つまりギンイソイワシはまるとんごろー(断面が丸いため)と呼ばれる。 高知のとんごろーは近年飛躍的に有名になり、高知市内で扱う店も増えた。よもや、とんごろーの乱獲を心配しないといけないような事態が起こっているとは、他県では信じられないだろう。とんごろーの漁獲シーズンは基本的に晩秋から春で、ほかの時期にはなかなかまとまって捕れない。しかし、この9月の高知で、とんごろーの素揚げを扱う店を少なくとも4軒確認した。ではこのとんごろーの正体は一体なんなのか? 予想としては、寒い時期に捕れたものを冷凍して使っているか、またはたまたま少数捕れたものが流通しているか。しかし予想は裏切られてしまった。なんとやってきたのは間違いなく標準和名でのトウゴロウイワシそのものだった。トウゴロウイワシとギンイソイワシは顔つきが異なるので素揚げになっていても分かる。誰でも簡単な特徴としては、ほかに肛門の位置がある。 黒っぽいところが肛門。これが腹びれの中央付近であればトウゴロウイワシ、腹びれの後端を越えたあたりならギンイソイワシとなる。この日は二軒でこの素揚げを食べたが、一軒目はすべてがトウゴロウイワシ、二軒目では1匹を除いてトウゴロウイワシだった。問屋任せで産地が不明なので...

水炊きを食べる

博多を代表する料理と言ったらなんだろう。若い世代ではラーメンともつ鍋になるかもしれない。少し上の世代なら、水炊きやうどんになるはずだ。 水炊きというと関東や関西の人々には、なんと味気のないものかと思われるだろう。関東の水炊きというのは、鍋の中に昆布一枚。ここに色々な具材を入れて炊き、ポン酢などで食べるもののことを指す。福岡の水炊きはそれとは全くちがうものだ。鶏のガラを何時間も煮炊きして、芳醇なだしをとる。ここに鶏のもも肉やつみれ、野菜などを加えていき、最後の〆に雑炊を食べる。これが博多の水炊きである。水炊きには汁の透明なものと濁ったものがあり、またその味もあっさり、すっきりしたものから濃厚なものまで多様だ。私はまだ、数軒にしか行っていないけれど、いずれもうまくて、甲乙がつけ難い。 さてこの日は水炊き発祥とされる店にお誘いで出掛けていた。つゆはまこと透き通っていながら、はじめにわずかの塩と、博多万能ねぎ(だと思う)で飲ませていただくつゆの芳醇なことよ。深いうまみが長く口の中であとを引く。 続いて鶏のもも肉、野菜と食べ進めて、最後には〆の雑炊となる。甲斐甲斐しく鍋の世話をしていただけることも水炊きの特徴だろう(すべての水炊き店にこのサービスがあるわけではない)。秋の冷ややかな風を感じるようになると、本格的に水炊きのシーズンとなる。

宮崎南部の川の幸

鹿児島と宮崎は今や養鰻の最大手県だ。ところが、意外にも古いうなぎ屋は少なく、現在でも多いとは言えない。関東などのように格式立った場所で外食としてうなぎを食べる文化はほとんど根付いていなかったと考えていいだろう。一方でうなぎを出してきたのは旅籠や茶屋、のち定食屋であった。それも元々は天然のものを使い、値段もひじょうに安いものであったと想像される。 さてその宮崎南部、日南のうなぎ。ここの主人は川狂で、冬場を除いてほとんど年中、川に入って、春はのぼりこ(ボウズハゼやヨシノボリ類の幼魚)、夏はてながえびやうなぎ、秋にはやまたろうがに(モクズガニ)や落ちアユを獲っている。ただし、いずれもメニューにはなく、店主の気分でつきだしに使ったりしている程度。天然のうなぎも、店で扱うことはなく、もっぱら自家消費となっている。 この日はかにと、走りの落ちアユとを出していただいた。かにはまだ、子が入り始めのものだけれど、味噌がたんまりと詰まっているもので、肉まで味がいい。モクズガニは川のにおいがつきやすいので、これを食べるとだいたい川のようすがわかる。アユは濁りの中で砂を食むから内臓を除いて、空揚げになっている。これもつとめてうまい。 天然の味を知る店主の店はなぜか宮崎県のうなぎを使うところが多いような気がする。ここは当然というか、宮崎県産の養殖うなぎ、それも特大のものを使う。大きくならないと味が出てこないという。背開きに粘度の低いタレで両面しっかりと焦げ目がつくまで焼いてある。工程の中に工夫があり、非の打ち所のない大うなぎだ。地元庶民に親しまれる食堂型うなぎ店として、これからも川に遊び、天然を知る川達者としてがんばってもらいたい。

茨城でどじょうに出合う

茨城を初めて訪れたのは、忘れもしない2007年のことだ。このとき、私は恩師の家庭科教員の突然の訃報を受けて通夜に出て、涙を拭って喪服のまま東京へ行き、上野の東京文化会館で合唱全国大会に出場した。その後はよく覚えていないが、打ち上げを早めに中座して、深夜の東京でぼうずコンニャク氏と合流し、霞ヶ浦へと向かったのだ。はじめての茨城、霞ヶ浦の印象はまこと鮮烈なものだった。 さて今回の茨城はもう8回目(旅としては4回目)になる。茨城県というところは実に広くて、何度行っても飽きが来ない。しかも名物が納豆と干し芋、川魚ときている。私はおそらく、茨城県に住むべきなんだろうな。 いつもは南東の方ばかりに行くのだけれど、今回は成田から北上して、下館方面に出かけた。車の運転でお世話になったたいちくんには頭が上がらない。滞在中、たまたま空いた時間ができたので、下館のまちを散策して、飲み屋を探す。こういうとき、いつもなら魚のうまい店か、あるいは日本酒の充実した店を探すことが多い。ところが今回は茨城の、すっかり内陸のところであるので、魚は期待できない。またあちこち歩いてみると、どうも今風の飲み屋はほとんどないことに気が付いた。うーんと唸って、時間が止まっているかのような、下館の町を見渡す。あれこれ考えた挙げ句に、大きな赤い看板の店に飛び込んでみた。 ここに入ったというのも、店先に柳川鍋の文字面を見つけたからにほかならない。調理場をひとりで切り盛りされているようで、ぽつぽつとあれこれ注文してみる。 飲み屋に納豆があるというのは、茨城では普通のことらしい。このマグロ納豆、ビンナガがふしぎな形に切ってあり、ひきわりの納豆と絡みやすくなっている。 柳川鍋は薄味ながら、ドジョウの嫌みやぬめり感はなく、むしろドジョウのよさをはっきりと活かした味わいになっている。空揚げはひとくち食べてうまいっと唸るほどの出来映えだった。こんなにうまいものの文化を持ち合わせている茨城人がうらやましい。茨城にはいくつものドジョウを食べさせる店があるけれど、そのいずれもが県内産のものを使っている。中国から輸入されるものとは味が異なるので、茨城人はよく分かっているということが分かる。ドジョウを捕りつづけられる環境が末長く残ることを願うばかりだ。

めんたい

めんたいこ、という言葉は、いまや知らぬもののないほどに普及した言葉だ。漢字で書くと明太子。しかしその語源を考えたことのある方はどれぐらいいるのだろう。めんたいこの親はスケトウダラだ。たらこというものがあるが、この親もスケトウダラ。タラことマダラの卵巣は黒紫の膜に覆われていて、たらことは全く異なる。スケトウダラの子、たらこを加工したものがめんたいこになる。加工すると親の名前がたらから、めんたいに変わるわけだ。 種明かしをすると、このめんたいという言葉は、朝鮮半島でタラの仲間を指す言葉なのだ。それを唐辛子で漬け込んで加工していたものだから、これをめんたいことして、日本に文化を持ち込んできた。スケトウダラの産地は東北北海道なのに、なんで博多にめんたいこの文化があるのかというと、こういうところに理由がある。 さて、福岡や山口県の一部では、ときどきめんたいという魚が売られている。 ではこれはスケトウダラなのかというと、不正解。スケトウダラは生食に適していない。もっぱら練り物などの加工原料となっている。めんたいはヨロイイタチウオを指す言葉。よく見ると、ピンクがなった身に、銀色がかった腹膜が見える。筋肉がふくれたようになっているのもこの魚の肉の特徴である。福岡や山口県には朝鮮で魚を捕っていた漁業者も多かった。そういう時代の名残が、このめんたいに残っているのかもしれない。

別嬪の老舗、丸よ

わけあってうなぎの老舗について、さまざまなことを調べている。調べるにはもちろん資料研究も大事だけれど、やはり実際に店舗に行ってみないと、分からないことだらけだ。資料だけで物事を考えてしまうというのは、ときにリアルからかけ離れてしまうことがあるから、注意が必要だと思っている。 さて、愛知の東、豊橋の本陣跡に丸よという明治初期創業のうなぎ屋がある。元は割烹であった織清の職人を雇い、江戸期からの宿屋がうなぎ専門店を始めた。織清はうなぎ料理を関東の流行りものとして出し始めた。ここ丸よに至っても、うなぎというハイカラ料理を扱うにあたって、皮目を上にして客に見せるという奇抜なアイディアを採用した。そこに別嬪の語源があるという。 丸よのうなぎは老舗としては関東風のほぼ西限にあたる(※関西には江戸流として関東風を扱うところがある)背開き、蒸しを加えたものだけれど、皮目にもしっかりとタレがつき、香ばしく仕上がっている。米は4代以上続く老舗の米屋から仕入れているもので、粒の小さなものを柔らかく炊いて、もち米混じりのような食感が魅力的だ。タレの味わいも少し醤油の際立った、東海地方としてはあっさりしたものとなっている。ハイカラ料理も姿を変えなければいずれ伝統の味となる。小さなお商売にこだわり続ける、うなぎ屋の姿ここにあり、である。

シンコという関東に特異なもの

日本人は初物をありがたがる。食べ物を通して季節を感じる、その中にある初物という存在はとてもいとおしいし、改めて繊細で純粋な、食べ物に感謝するという気持ちのうえに成り立っているものだと思う。特に魚の場合、新仔、シンコという概念がある。まだ出始めで生まれたての、あるいは、育ち盛りのまだ幼いものを指して、旬のものとして楽しむ。その最たるものがシンコ、コノシロの子供である。江戸前寿司にとって、季節感を最大限に印象付けるのはコノシロの成長だ。コノシロは地域によって多少の差はあるものの、春、だいたい4から5月頃に産卵する。この子供が6月の終わり頃になると1円玉を超えるサイズになってくる。これをシンコと呼んで、関東江戸前の寿司屋では競って扱うようになる。もともと、江戸前の海(という表現もおかしいけれど)で獲っていたのが、東京湾ではほとんど獲れなくなってきている。現在も内房で少し漁があるようだが、主たる産地は伊勢湾三河湾と、有明海だ。シンコはキロあたり何万もするもので、地元には一切、出回らない。身が柔らかく、繊細なシンコは氷水に浸かって、急いで東京に送られる。世の中のシンコはほぼすべて築地、今は豊洲に集まるといっていいだろう。そんな魚は日本中を探してもシンコくらいしかないのではなかろうか。シンコを使った握り寿司は愛知県や福岡、佐賀県など、産地の県でも食べられるが、扱う店舗がごく限られるうえに、これらは東京で競り落とされたものが産地に逆輸入されているものだ。それなら、東京、あるいは関東で食べた方がいいということになる。ほぼ、関東の郷土限定食材だと言っていい。 7月半ばに神奈川の気のいい寿司屋でいただいたシンコは、3枚付けだった。一巻の寿司に、腹開きにしたシンコがけなげに3枚、握られている。前の週には6枚付けだったという。これが2枚、ないしは1枚半になったら、シンコの季節は終わり。週を経るごとあっという間に成長して、シンコの旬は終わりを迎える。