スキップしてメイン コンテンツに移動

タチウオの背ごし

 一昔前のある頃、毎月のように尾鷲に通っていた。三重県尾鷲というところは熊野灘のリアス式海岸地域、その中腹あるいはその少し西寄りとも言えるあたりにある昔からの漁師町で、このあたりとしては比較的大きな尾鷲湾という内湾に面している。尾鷲とその近隣の小湾にはそれぞれに集落があり、そしてそれぞれに定置網がある。それはいわゆる小敷と呼ばれるようなやや小型のものもあるが、大敷という大型のものもあって、年間にさまざまな魚を獲っている。昔はそれぞれの港で水揚げしていたはずだが、今は多くが尾鷲湾の奥、尾鷲漁港に集まって水揚げをする。アオリイカなど船の上で主要なものを選別して帰ってくることもあるが、基本的には活けた魚以外はまとまっているので岸に船を着けて、ヨリダイ(選り台)に乗せて魚種ごとに選別していく。早朝の尾鷲に行って、選る場を見るのが楽しかった。夏場には網を抜いてしまうところもあるけれど、秋から春にはさまざまな魚を浜にもたらす。季節ごとによく獲れる魚種は異なり、季節の顔役になる魚がある。

例年秋ごろに多くなるのがタチウオで、大きなものは値段もいいから稼ぎになる。ところが、小さいものはというととたんに安くなる。タチウオは細長い魚であるので、長さで考えてもあまり意味がない。体の幅、実際には体高が指三本を超えるようなものでないとほとんど値段はついていないようなものである。そんな魚を、船しごとの合間におかずにして食べる。これが背ごしである。

背ごしは、肉の柔らかいタチウオのことだから新鮮なものでないとできないし、遠方流通には乗らないような大きさのものだから余計に手に入らない。そんなことをぼやいていたら柳川の松本鮮魚さんが気を効かせて送ってくださった。小さいのにピカピカで、ぜんぜん皮の擦れていない美しい小太刀だ。

タチウオは頭と腹を落とす。腹は肉ごとごっそりと取る。骨のところの血をよく洗ったら、背びれの付け根にそって両側浅く刃を遠し、付け根の骨ごと抜き取ってしまう。ただし抜き取りは多少甘くても構わない。肛門から前と後ろとに分け、後ろを背ごしにする。骨の硬いめな魚であるのでよく細く、骨を断つように垂直に切っていく。尾の細いところは食べにくいので残し、刻んだ身をさっと冷たい塩水(海水の1/3程度)ですすいで皿に盛る。ここに、甘い醤油をたっぷりかけたり、辛い生姜醤油にしたり、あるいは酢をかけたりなどで思い思いに食べる。これが漁の合間のおかずになる。なお、私は塩水ですすがない方がすきだ。

肛門より前と尾の細いところ(校舎はだいたいの場合捨ててしまう)はしっかりと、骨が残らないようにたたいて、味噌、あればねぎも加えてたたきにする。このたたきもタチウオの肉の味のよさを活かすものでたいへんすばらしい。



このブログの人気の投稿

雷魚を食べる その1

日本で食べられることのなくなった外来種(国外移入種)がある。もっと正確に表現すれば、食料として持ち込まれたにもかかわらず、現在ではその地位を失い、野にのさばっている種、だ。そうした生き物たちは日本の水辺に少なからぬ影響を与えては、今日に至っている。 雷魚ことカムルチーは戦前の日本に導入され、爆発的に広がった外来種のひとつだ。本来この魚は日本にはいなかった。各地でらいぎょ、かもちん、かむるちー、たいわんどじょうと呼び習わされる(※タイワンドジョウという別種も移入されている)この魚は一時、重要な食用魚という地位にあった。低湿地帯での聞き取り調査では頻繁に会話に登場する魚でもある。 戦後しばらくすると、雷魚を食べて顎口虫に罹患するという恐ろしい症例が国内で共有されるようになる。顎口虫は加熱すれば問題のない寄生虫だが、生食される機会の少なくなかった雷魚による寄生虫問題は列島を震撼させ、1970年代にはほとんど食習慣がなくなったと推測される。しかし現在でも、らいぎょはうまい、うまかったという話をときどき耳にする。うまかった記憶というのは、どうしてもぬぐい去ることができないらしい。 国内にはいくらでもいたカムルチーは戦後、次第に大きく数を減らしていくことになる。その理由のひとつには彼らの繁殖生態がある。カムルチーは草を寄せ集めて巣を作り、そこに卵を産む。すなわち、カムルチーのアクセス可能な場所に、巣を作るための浅い場所と植物が必要となる。翻って国内の水辺、特に水路や水田地帯はこのような場所を失ってきた。モンスーンの湿地帯を必要とする彼らにとって、今の日本は生きづらい。同様の理由でチョウセンブナも国内からはほとんどいなくなった。私が子供の頃までは、まだ田に入って産卵するカムルチーが身近にいた。その水路も今は昔だ。国外移入種であるカムルチーが国内からいなくなることは喜ばしいことであるけれど、それが水辺の環境劣化の結果だとすればてばなしには喜びにくい。 私の育った地域にはそれでもまだカムルチーにしばしば遭遇することがあった。しかし、ほとんどの場所の水はとても汚なく、とうてい食べる気にはなれなかった。一度だけ若い個体を木曽川から水を引く水路で採り、唐揚げにしたことがある。肉質は良かったけれど、味に関する記憶は曖昧だった。味付けが濃すぎたような気もする。 さて、とある氾濫原に魚

カワムツを食べる

カワムツという魚がいる。海のムツではなく、川のムツ。ムツというのは古語である。海のムツといえば今や高級魚の末席にあるような魚だけれど、カワムツはどうだろう。昔持っていた釣魚図鑑には不味と書いてあったし、そのほかの文献を読んでみてもオイカワより味は劣る、とか、とにかく比較的評判が悪いことが多い。私は幼少の頃からオイカワのおいしさを知っていたものの、カワムツについてはこうした事情からかなり最近まで食べる機会を逸していた。そもそも、カワムツはオイカワに比べると川の上流側、淵のような深いところにいることが多くて、私の主な活動範囲である平野部の浅い水路にはなかなか出てこない。少なくとも愛知県ではそうだった。 西日本で一般に川の小魚と言えばオイカワになると思うのだけれど、山手に進むとカワムツに変わる。たしかに、ここ九州でもカワムツはオイカワよりもより上流まで分布している。ヤマソバヤという呼び名は山にいるはやという意味をもつ。この山のハヤがひとびとにとっての重要なタンパク源であったことは疑う余地をもたない。その割に文献資料に欠けるので、やっぱり自分の足で昔の記憶を尋ねて歩く必要があるし、単にハヤとされている資料ではそれがカワムツであったのかオイカワか、またウグイやその他かということが分からない(文脈で分かることもある)。 さてそのカワムツを食べたくて、水辺に出掛けては黒々と群れをなしているところに突っ込んで、大小を取り合わせて持ち帰る。この時期は暑さですぐに肉が痛んでしまうから、よく冷やして持ち帰る。川のハヤは焼いたり揚げたりして食べる分には鱗をとる必要がない。大きなものは腹の中央あたりに包丁の切っ先で小さな切れ目を作り、そこから絞るようにして内蔵を押し出す。口からまっすぐではなく、少し尾がせり上がるようにして串を打つ。すなわち、串の先端は内臓の空洞を通って、臀びれの末端あたりから出す。平たい串を使えばこれでも魚が回ることはない。普通の塩焼きに比べたらかなり多い量の塩を振って、"塩だまり"ができるようなかたちで、手で塗りたくるようにして全身に回す。これをうまく焼き上げたら塩焼きとなる。家庭用の魚焼きグリルでも問題なくできる。はじめは強火で表面の水分を飛ばし、あとは弱火にして25分ほどかけて焼き上げる。焦がしすぎてはいけない。中まで焼けているかどうかという

秋になったら秋太郎

秋太郎という魚がある。鹿児島の秋告魚、バショウカジキのことだ。この魚はバレンと呼ばれることもあるけれど、たいていは秋太郎と名して流通している。この魚が店頭に姿を見せると秋がやって来たことをぐっと実感する。バショウカジキはフウライカジキと並んで安いカジキの代表のように思われているが、鹿児島では少しいい値がついている。この頃は福岡でも手に入ることがあり、流通に感謝するよりほかない。でも、さすがにワタは福岡ではお目にかかることができないから、やはり鹿児島へ行く必要がある。カジキのワタはうまい。 この日はたまたま、日本海の定置網に入ったマカジキもあったので、トビウオとともに3種盛りとする。秋太郎のサクには筋のように見えるものがあるけれど、マグロの筋と違ってほとんど気にならない。ねとっと、そしてさくっとした食感が新しさを物語る。脂のついたマカジキと、爽やかな秋太郎との対比がたのしい。 たくさん刺身を作ると余りが出る。この余り物はてこねずしとする。てこねの作り方はいつも通り。面倒なので手抜きした。さてそのてこねが余る。こういうことは間々ある。志摩ではてこねが余ったら、チャーハンか茶漬けと相場が決まっている。この日は茶漬けにした。熱いめのお茶をづけ身めがけてかけ回す。 てこねの茶漬けは生臭いので、刻んだしょうがを乗せて食べる。志摩人に言わせれば、生臭いのがこのてこね茶漬けの醍醐味なのだそうだ。